フローゼンの結末



 そのとき私は唐突に、彼がどこか遠くへ行こうとしていることに気付いた。

 いつにもまして底冷えのする朝で、私は暖房の温度を二度上げて指先をこすり合わせていた。ヴィクトルは羽布団に沈み込んだまま子どものように動かない。一度深く眠ると身じろぎの一つもしないため、よく風邪をひくのだと言っていた。こんな大きな子どもを看病をするのは手間だと思い、毛布を一枚たしてやる。ちょうどのタイミングで意識が浮上したのか、彼は一度ううんと唸り目をあけた。薄い色の虹彩に、朝の光がしみるようだ。

「おはよう。寒い?」
「おはよう。うん少し」

 彼は布団の中から手だけを伸ばし、もぞもぞと横着をして床のセーターを引っぱり寄せる。「ちくちくする」とこぼしているが、素肌に着込めば当たり前のことだ。眠いときや寒いとき、彼は悪びれることなく滔々と不満を漏らす。彼の造形や表情はあまりにイノセントなため、そんな言動にも特別見苦しさはないが。

「春はまだ先だね」
「この国の春なんてあってないようなものだよ」
「でもヴィーチャ、あなた渡り鳥が好きだって言ってたじゃない」
「だってあんなにたくさんでぴったり揃って凄いだろ? 俺たち二人だって苦労するのに」

 彼はようやく年相応の笑顔を浮かべこちらを見た。空を飛ぶのと氷を削るのでは違う気がするが、気持ちはわかる。羽根を広げ薄曇りの白に舞う鳥たちは本当に美しい。彼の前髪から覗く青を見て、私は冬の情景を思い出した。

「湖まで見に行こうね」

 その言葉に頷くでもなく笑みを深めると、ヴィクトルは窓の外を見上げた。そして私は唐突に、彼はその頃もうここにいないのだと思った。冷えたままの指先をぎゅっと握る。

「名前は春が好きなの?」
「たったいま嫌いになりそう」
「……ずっと考えてたんだ。このままじゃ駄目だって」
「それって私たち二人のこと?」
「違う。俺のこと」

 結局は同じことだ。『彼のこと』に私はいつまでも割り込めない。思えばいつだって、私は彼とではなくスケートという途方もなく大きなものと恋愛をしていたように思う。自分の想いや彼の心がリンクの上に表現される時、私は喜びと一緒に少しの寂しさを感じた。作品に昇華された時点で、それは恋でなく恋に似た何かだった。少しのずれは不安に変わり、積もり積もって私の心を冷やし続ける。彼が温めるより少し早く、私の指先や、頬や、心臓の一部をじんじんと凍らせてしまうのだ。きっとそんな理由で離れていった女性は多いのだと思う。それでも彼がここにいる限り、全身が凍りついたってそばにいる覚悟くらいはあったのだ。

「あなたのことが好きだよ。本当に大切に思ってる。いつだって幸せでいてほしいし、あなたを悪く言う人がいたらどこにだって殴りにいく。いろんな声とか目なんて全部跳ねのけられるように常にリーチを長く保ってるの。ヨガをやったら少し腕が伸びたって話、したっけ?」
「うん。聞いた」
「そりゃしょうもないところも、あるけどさ。思い付きで行動したり、思ったことすぐ口にしたり、そんなことで傷付けられたことたくさんあった。でも好きなんだよ。どうしようってくらい好きで、今もどうしてこんなこと言っちゃってるんだろうって思ってる」
「俺も名前の、そういうバカみたいに正直なところ好きだよ」
「だから私を置いてどこかへ行くんだとしたら、ちゃんと言葉で言ってほしい」

 そうでなきゃ私はいつまでもここから動けない。いよいよ凍りついたそのときに、隣に誰もいなかったなんてそんなのは悲しすぎる。彼は私の言葉を受け少しだけ目を大きくすると、ゆっくりと言い聞かせるような声で「ロシアを出ようと思う」と言った。

「そう」
「名前、泣いてるの?」
「泣かないよ。慰めのキスをされて終わり、なんてそんな綺麗な最後は癪だから」
「……終わりにするつもりはないよ。けど待っててくれとは言わない」

 温度を感じさせない声だ。彼の意思は固い。彼がぱたりと会話を収束させたため、私も短く頷くしかなかった。

「わかった」

 自分の感覚を信じて生きてきた彼に、横から意見をするのは本当に難しいことだ。頑固とか、横暴とは違う。それが一番いい結果をもたらすと身をもって知ってきたからだ。けれどそんな彼にだって自分に飽きることはあるのかもしれない。完璧に見える彼が現状に限界を感じたというなら、私に引き止めることなどできるわけがない。
 見送りには行かないつもりだ。待つわけでもなしに送り出すのは、今生の別れのようで嫌だからだ。



 三月に入っても、サンクトペテルブルクの凍てつきは溶けない。けれど今日は雲が薄く、わずかに春めいた日差しが感じられたので、室内に避難させていた鉢植えを窓辺へ並べていた。今日発つことは知っていた。けれどあれから彼とは一度も会っていなかったため、道の向こうに彼のコートが見えた時は驚いてしまった。
 あわてて窓を開け、「間に合うの?」と聞く。彼は肩で息をしながら、白い頬をわずかに紅潮させていた。四分半休まずに滑る彼がこうも息を切らせているのだから、けっこうな距離を駆けてきたのかもしれない。

「わかった、って」
「え?」
「わかったって頷かれて、ちょっとショックだったんだ。自分から言ったことなのに」

 彼はあいさつもなくそんなことを言うと、マフラーを首から外してシャツのボタンを一つ開けた。やはり相当駆けたのだ。来る予定などなかったに違いない。私の胸はとたんにつまり、おでこのあたりがじんわりと熱くなった。けれど彼の前では泣かないと決めていたため、俯くかわりに首をかしげた。

「ほんとにバカな人。わざわざ会いにきて『ちょっとショック』だなんて、女心がわからないにもほどがあるよ」
「うん、ごめん。『すごく』ショックだった」
「そこにいて」

 言い残して急ぎ足で階段を下りる。玄関を開けると、待ち構えるように彼が手を広げていたので笑ってしまった。別れの挨拶だというのにこんなにも嬉しそうなのだからずるい人だ。胸に頬を寄せ、コートの背を抱きしめる。彼の腕が柔らかく周り、氷の呪いを解くおとぎ噺の抱擁ってこんなものだろうなんて思う。

「帰ってくるんでしょう」
「日本で死ぬわけじゃない」
「うん。待ってる」

 私だけじゃなく、きっとみんながあなたの帰りを待っている。止めることはできないし、そのつもりもないけれど、待っていいと言うのならいくらでも待とう。心臓まで凍りきってもうどこへも行けなくなったとしても、また指先から溶かしてくれる日を信じて。

2016.11.20


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