基本と、発展の話だ。
とくべつ人より優れているとは思わないけれど、とくべつ劣っている自覚もなかった。うっかりしているところはあると思う。けれどなんとか十八年間、人や自分を致命的に傷つけたり騙したりすることなく生きてこられた。人生に対するハードルが低すぎると怒られるかもしれないけれど、高くしたらきっと足を引っかけて転ぶためこれくらいでいいのだと思う。なにもなくても転ぶのだから、障害は少ない方が身のためだ。けれど一方で、傷だらけになりながら急な階段を一歩一歩と上っていく人間に憧れを抱いてもいる。名の知れた私立校である梟谷学園には、そういった人種が一定数いた。
「赤葦! 部会何時からだっけ!?」
例えば、今大きな声を上げたクラスメイト。
「半からです。木兎さん、部費関係の書類持ってきましたか」
「……」
「忘れましたね?」
そして、返事をした彼だってそうだ。
「昨日寝るまえ布団で書き直して……そのままだ! どうしよ赤葦!」
「明日直接持ってけば平気だと思いますけど。ていうか布団で記入するのやめてください、だから木兎さんにあずけるといっつもシワシワになって戻ってくるんですか」
赤葦くんは手にしていたバインダーを薄く開きため息をついた。中にはきっとシワシワの部活関連書類がいく枚も綴じられているのだろう。一見似ていないように見える彼らだけれど、私と二人の間には見えない線が一本あって、私はこっち、彼らはあっちと明確に分けられている。
「あ、そうだ名字さん」
「……はい!」
「これこの前の」
筆箱とペットボトルを両手に握りしめ、のしのしと教室を出て行った木兎くんの後ろで、彼は私を振り返った。手渡された袋を覗けば予想通り、中には薄手のカーディガンが入っている。先日私が彼の家に忘れてきたものだ。
「じゃあ、また」
それだけ言って、赤葦くんは木兎くんの後を追う。わずかなやり取りの中にどうしようもない色っぽさを感じてしまい、顔が赤くなった。彼が急いでいてよかったと思う。私がこうして顔色を変えたり心拍数を上げたりすると、赤葦くんは動物のような目でそれを煽るのだ。面倒見がよく、冷静で良心的な彼の中に時おり彼らしからぬ炎がちらつくことがある。そして彼はその熱で私を炙ろうとする。じりじり、じりじりと少しずつ。悪い人というわけでは当然ない。けれど一口に良い人とも言えない。油断ならないと思っているのに、彼の目の奥が燃えているのを見ると、とたんに力が抜けてしまう。お湯に浸かっているみたいに呼吸が重くなって、熱いのに気持ち良い、気持ち良いけどちょっと熱すぎる、そんなおかしな心地になった。
「あんた、木兎の相方と付き合ってんの?」
一部始終を見ていたらしい友人にそう聞かれ、私は曖昧に首をかしげた。
「ああ、まあ、付き合ってるというか」
「……? どういう関係?」
「検討中というか」
「どんな立場よ」
事故のようなキスをしてしまったあの日、すぐさま答えを出せなかった私はひとまず「お友だちから」というせこすぎる言い逃れをしてその場を濁した。すんなりと濁されてくれるような彼ではないけれど、付け入る隙などこの先いくらでもあると踏んだのか、思いの外あっさりと頷いてくれたのだった。そうしてなんともいえない距離感のまま付き合うこと三週間。お友だちらしく一緒にお弁当を食べたり、テスト勉強をしたりしている。
彼の家にカーディガンを忘れたのは期末テストの前日のことだ。勉強会なんていう名目で呼ばれた事実上のおうちデートを了承した時、彼は「俺が言うのもなんですがあんた危機管理大丈夫ですか」と心配してくれたけれど、結局キス以上のことをするでもなくその日は物理の公式を解いて終わった。呆れたようなポーカーフェイスの裏で彼が何を思っているのかは知らないが、根が我慢強い人なのだ。
面倒見がよく、冷静で、良心的。赤葦京治の基本はそれだ。問題は発展にあった。
「基本問題はできるのに、発展になるととたんにミスが増えますね」
返ってきたテスト用紙に目をはしらせながら、赤葦くんはそう言った。昼休みの屋上テラスは陽気が良く人も多い。バレー部員は二時限目のあとにお弁当を半分食べてしまうのが習慣化しているらしく、あっという間に残りの半分を食べ終えた彼らは、購買部のパンを片手に私のテスト用紙を冷やかしていた。
「そっか名字、理系か!」
「木兎くんは文系?」
「俺は体育会系」
「そういうことじゃなくて」
おそらく名門バレー部のレギュラー部員である彼らには、その延長を行くレールがこの先も敷かれているのだろう。レールといえば聞こえはいいが、きっとでこぼこで足場が悪く障害だらけの上り道だ。そんな場所を歩く勇気は私にはないため、こうしてせっせと勉強をしている。
「赤葦くんは大丈夫だった? テスト」
「まあなんとか。政経はちょっとやばいかもしれないけど」
「赤葦苦手な科目とかあんの!?」
「だって俺ら、テスト休みなんてあってないようなものじゃないですか。暗記系はカツカツですよ」
「たしかに!」
本当に、よく頑張ると思う。おかずパンのビニールをくしゃくしゃと丸めた木兎くんの、大きな手を見ながら改めて感心していると、ちょうどよく鐘がなった。
「っし! つぎ体育!」
「え! 忘れてた! 着替えてない」
「同じクラスの木兎さんが体操着着てるのに、どうしたら忘れられるんですか」
赤葦くんの冷静なつっこみを聞きながら、あっという間に階段を降りて行ってしまった木兎くんの背中を見送る。私も早く着替えなきゃと立ち上がるが、ふいに後ろから手首を掴まれ、足を踏み出せなくなった。
「先輩」
「はい」
きゃっきゃと笑いあいながら屋上のドアをくぐっていく女の子たちを横目に、赤葦くんを振り返る。閉まりかけのドアノブに手をやって、ぐんと開き直すと、彼はドアの裏に私を隠し、耳のあたりに唇を寄せた。動物が匂いを嗅ぐようなそのしぐさに思わず首がすくむ。「またそういう顔して」と呟く声が聞こえたので、抗議を兼ね見上げると、今度は口に噛みつかれた。
「……こんなことするお友だちっているんですかね」
「あ、赤葦くん……私はやく着替えないと」
「どうせ間に合いませんよ。次、さぼりませんか」
「だめ、癖になるから」
「ケンカうってますかそのセリフ」
眉をゆがめた赤葦くんの、虹彩の内側に熱いものがチラついているのが見える。お願いだからいじわるしないでほしい。そうやってされると、私は腰までお湯に浸かったようにのぼせあがり一歩だって歩けなくなってしまう。
「誤解してるかもしれないけど」
彼はドアから手を離し、一度息を吐いた。ばたんと鉄の音がして、さえぎられていた陽光がぽかぽかとふりそそぐ。
「別に、名字さんの嫌がることをしたいわけじゃない」
「……」
「ただあんたが、俺の言葉とか行動で、どうしようもなくなってるとこが見たい」
そこに明確な差はあるのだろうか。グラウンドではしゃぐ男子生徒の声が、別世界の残響のように鼓膜をゆらす。よく知った声だ。彼の相方であり、仲間であり、線の向こう側にいる人。赤葦くんだって決してこちら側には来てくれないくせに、こうやって手を伸ばして私を揺さぶるのだから手に負えない。彼はゆっくりと腕を組んだ。薄い目がじっとこちらを見ている。私は大きく息を吸い、少しとめ、降伏の言葉を探した。
2016.12.1