春の日の神はよく笑う



『ゆ〜とぴあかつき』には神様が住んでいる。
 なんていうと、まるでどこぞの国民的神隠しアニメのようだけれど。それもあながち大げさではないのかもしれない。賑わう客と立ち篭る湯けむりの間で、二人の神様が笑いあう光景を私はたしかに見た。食卓には黄金の食べ物が並んでいる。傍にあるのはお神酒だろうか。芳しい香りに誘われて膝をつくと、彼らはまるで人間に化けたような顔をしてあどけなく笑う。

「かつ丼、食べる?」

 神様はよもぎ色の作務衣を着ていた。



 かつき君の顔が変わった、と思ったのは先週の朝のことだ。
 春の祭日に合わせ長期休暇をもらっていた私は、隣町の実家からはせつへと戻ってすぐ、旅館の離れの掃除に取りかかっていた。同級生の中でもとくべつに有名な『かつきゆうり』君が、とくべつな理由はたくさんある。この田舎の観光都市周辺に住む者で、彼の実家を知らない者はそういない。知り合った頃から彼は『かつきの子』だったし、たまの贅沢で宿に一泊するときにはいつも妙に照れくさく、かつき君に出くわさないといいな、なんて思ったりした。もっとも彼はその頃から郊外のスケート場にばかりこもっていたため、めったに会うこともなく、むしろ「あなたもかつき君みたいに」とその熱心さを小言の定型文に使われることが常だった。たぶんどこの家でもそうだったのだと思う。メディアは遅咲きと言うけれど、彼は幼い頃から人とは一線を画していたし、もうずっとこの街のシンボルであった。当のかつき君自身は才能を振りかざすことなど全くなく、学校にいるときは他の子よりも目立たないくらいだったけれど、そういうところすら私の目にはたまらなく『とくべつ』に映った。
 そんな彼の実家、もといゆ〜とぴあかつきで働き始めたのは短期大学を出て二年目の冬のことだ。勤め先を誤ったのか、寝る間もないハードワークに身も心も憔悴しきっていた私の話を、母がかつきの食堂で漏らしたのがきっかけだった。地元のネットワークというのは凄いもので、あれよあれよと話が周り、それならうちでと帰省を促す連絡をいただいたのだ。調理師の資格をとっていて良かったと、かつきの食堂で鍋をふるうたび思う。都会に出たいという野心は元からそこまでなかったし、はせつの街は好きだ。今の生活は気に入っている。
 そういえば、私が実家に帰っている間に盛大なイベントがあったようだな、と思い出しながら腰を上げた。雑巾の水が手にしみるけれど、冷えた日の朝に身辺をきれいにすることは嫌いじゃない。だんだんと体の芯があたたまり、手足の隙間に油をさしているような気持ちになる。背中がぽかぽかとしてきて、考えごとがよく進む。バケツを入れ替えようと廊下へ出、流しへの角を曲がったところで、しかし私の体は固まった。
 幻覚だろうか。そこに見えるのは日本国佐賀県で生まれ育った私にとってあまりに馴染みのない光景だった。昨夜はパソコンをやりすぎたので眼精疲労がたまっているのかもしれない。けれど半裸の外国人が犬と一緒に歯を磨いている絵面なんてどれだけの疲れ目でも見間違わないだろう。ゆっくりと近付いて窺い見ると、まず犬がこちらを見て、それからしゃなりと音を立てるよう銀髪が揺れた。

「やあおはよう」

 凍った時を溶かすような滑らかな英語だ。とっさに私も挨拶を返す。

「おはようございます」
「ここのスタッフかな? よろしく。コニチハ〜」
「こんにちは。えーと」

 学生時代から英語は苦手ではないけれど、たとえ日本語だろうとこの状況ではろくに言葉が出ないだろう。私は息を二度吸って、こちらに寄ってきたスタンダードプードルの頭を一度撫で、それからなんとか口を開いた。

「あの、あなたはここに滞在しているんですか?」
「そうだよ。先週から。いいところだね」

 フィギュアスケートにそう詳しくない私でも、この美しい顔には覚えがある。昨年、かつき君が出場した世界大会のリンクにも彼の姿はあった。競技に目が肥えていなくたってはっきりとわかる彼の素晴らしさに、私も思わず釘付けになったものだ。実在を疑うほどの完璧さをもったテレビの向こうの人間が、今こうして目の前で廊下の板ばりを軋ませている。私の頭はいいように混乱した。合成写真のようでいて、彼の輝くプラチナブロンドは日本家屋の飴色のニスと不思議なマッチングを見せている。
 そして私は、この衝撃的な光景に打ち消された近頃のはせつの変革について思い返す。ヴィクトル・ニキフォロフがこの街にやってきたことは各種メディアでも大々的に報じられていた。けれどまさか、かつき君のコーチだからといってかつき君の実家に住み込んでいるなんてそんな力技を誰が想像するだろう。世界中の憧れの的であるスケート界のレジェンドが、この哀愁溢れる地方都市の観光宿に住んでいることのシュールさは計り知れないものがある。

「ヴィクトル、今日のメニューなんだけど……」

 再び止まりかけた私の思考を解いたのは、またもや流暢な英語だった。聞き馴染みのある声と、初めて聞く響き。思わずごくりと息を飲む。それは単純に言語の違いではなく、声色が、口調が、表情が、彼がこの数週のうちに小さな生まれ変わりを遂げたことを示していた。アイスキャッスルはせつで、初めて競技選手としてのかつき君を目にした日のことを思い出す。あの時も彼は黒い髪を控えめになびかせて、けれど世界の中心は自分なのだと主張するようリンクに線を描いていた。彼は午前中の練習メニューについてヴィクトルコーチと少し話し、それからゆっくり顔をあげる。

「あ、名字さん、帰ってたんだ」
「うん。長いことお暇もらいました。またよろしくお願いします」
「ああ、いやそんな、僕が雇ってるわけじゃないんだから、ほらただの同級生なわけだし、ただのっていうか」

 かつき君はそんなことをごにょごにょと言い頭をかいた。困ると泳ぐ目の動きは昔から変わっていなくてなんだか少し安心する。プードルが一声鳴いて、バケツの水がじんと揺れた。
 そんなワンシーンが、つい一週間前のこと。
 そして、たった今よもぎ色の作務衣姿で私に箸を勧めているのはまごうことなくヴィクトル・ニキフォロフその人だ。こんなに繊細な見た目をしておいて、おどろくほど衣食住に警戒心がないのは彼の長い選手生活のたまものなのだろうか。作務衣のあわせはそこらの常連客のようにだらしなく違っている。

「これってかつき君の分なんじゃ」
「いいよ……試合をしてもいないのにご褒美にありつく気? っていうヴィクトルの笑顔の蔑みに今ちょうど耐えられなくなったところ」

 かつき君はそう言うと隣の蒸し鶏御前を勢いよくかきこんで、ふらふらと座敷を降りた。高タンパク低カロリーのそれだってとても美味しいメニューなのだと自信を持って言えるけれど、彼にとってカツ丼というのは特別なエクスタシーを含むものらしい。節制の効果が出ているようで、離れへと引き上げていく彼の後姿は適度に引き締まり、アスリートの頼もしさをまとっている。

「そういえば、これって君が作ってるの?」

 彼の背中を見送る私に、ヴィクトルコーチは急にそんなことを聞いた。

「いえ、今日は厨房には入ってません」
「そう。ゆうりがキミの作る料理を褒めてたよ。二年前まではトウキョウのレストランにいたんだって?」
「はい。でも、向いてなかったみたいです」
「ふーん?」

 彼の目はよく見ると氷のように透明な色をしている。全てを見透かす薄青だ。

「君にとってゆうりはどんな存在?」

 次の問いかけは、先ほどよりも少しだけ意味ありげに聞こえた。彼の綺麗なくちびるからそんな声を出されると、私のような田舎娘はそれだけで頭が回らなくなってしまう。私はかぐわしいカツレツと硫黄のにおいを胸一杯に吸い込んで、ぐっと口をつぐんだ。その様を見て彼のような男がどんな反応を示すかは大体わかっていたが、やめられない。案の定大きな声で笑われ、下を向く。

「ごめんごめん、何気なく答えてくれればいいんだよ。けど、ちょっとデリカシーがなかったかな」
「いえ、そんな」
「ゆうりのことを、できるだけ多く知りたいんだ。彼がどんなことを思い、誰と出会い、なにを見て生きてきたのか」

 よくできた詩を詠むように、彼は完璧な音律でそう言った。私はみるみるうちに瞼の裏が熱くなるのを感じた。ヴィクトルのインタビュー記事を切り抜いて、彼の飼っている犬から着ている服、行った場所に好きな歌、そんなことを宝物のように集めていたかつき君の姿を思い出す。彼の長い憧れが今こうして身を結んだことに、私まで深い感慨を覚えてしまう。

「相思相愛ですね」
「コーチと選手はそうあるべきだよ。時に血よりも硬く、恋よりも熱く結ばれていないと互いの信頼はすぐにほどけてしまう。自分自身の才能と向き合う時、選手がどれだけ孤独かわかるかい? コーチはそこに寄り添える唯一の存在なんだ」
「なんとなく、わかる気がします。私にはきっと……」

 信頼できる上司がいなかったのだ。だから厳しい業務に耐えられなかった。一人でも、心の支えになるほどに距離を許せる人間がいれば何かが変わっていただろうか。

「すみません、全然違いますね。たぶん私とは」
「違わないよ。どんな世界だってそうさ」

 優しい彼は今、かつき君にとってどのような存在なのだろう。兄だろうか、父だろうか、恋い焦がれるスケートの象徴そのものだろうか。想像を巡らせたところで、やはり彼はかつき君にとって「コーチ」であるのだろうと思い至った。『唯一の存在なんだ』そう言った彼の言葉は愛情と自信に満ちている。努力とともに掘り進めてしまう暗い穴のようなものがきっとあって、その闇の中に手を差し伸べられるのは同じだけ努力をした人間に限るのだろう。

「私にとって、かつき君は神さまみたいなものです」
「神さま」
「そう。高校受験のときも、大学受験のときも、この宿にむかってお祈りしました。いつも頑張ってるかつき君の、夢に向かっていくエネルギーを少しでも私に分けてください!って。今思えば勝手なお願いだけど、憧れてたんだと思います。本当にひたむきでしょう、彼って」
「そうだね。ひたむきが過ぎるくらいだ」

 そう言って細めた目を、彼はきゅうに丸くして子どものような顔をする。言葉に合わせて細やかに表情が変わる人だ。つられて私も背筋が伸びる。

「あ、もしかして俺に妬く?」
「まさか! 神さまの憧れなんだから、あなたも私にとっては神さまです」
「君の神はゆうりなんだろう?」
「日本には神さまがいっぱいいるんですよ」
「ワォ、すごい国だね」

 この神様はよく笑う。宿の外では遅咲きの桜が散りはじめている。はせつには神様が二人もいるのだから、もう少し散らずに残ればいいのにと惜しく思った。

2016/11/16

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