あくまの食卓



 後ろの席に座ると黒板が見づらいというのは男子バレー部員全般に言えることだけれど、私が授業に集中できない理由はそれだけではない。

「名字さん、髪切った?」

 前の席の及川君は、プリントを回すだけだというのに上半身ごと振り向いてそんなことを聞く。

「え、切ってないよ!」
「ほんと? ほんとに切ってない?」

 突然の質問に驚きながらも、身に覚えがなかったため否定した。けれどすかさず問い直され、思わず考えてしまう。ここひと月美容院に行くどころか前髪すら整えていないというのに、強豪バレー部の主将であり誰もが認める人気者の及川君に問いただされると、なんだか自信がなくなってくる。結果、私はおずおずと「切ってないと思う」と返した。

「あはは何それ、自信持ちなよ」
「うん」
「そっかあ切ってないかあ」

 彼はにこにこと爽やかな顔で私を見てから、何ごともなかったように前へ向き直った。なんだったんだろうと思いながらプリントを整える。しかし、角を揃えカラークリップを開いたところで彼がまたもや勢いよく振り向いたため、びくりと肩が跳ねクリップがどこかへ跳んだ。

「ごめんね、切ってないよね。知ってる。ただなんか退屈で話しかけたかっただけ」
「え、あ、そうなの」
「はいこれ」

 まばたきを繰り返す私に、彼はちらりと小悪魔的な笑みを浮かべた。けれどすぐに表情を正し、膝の上へ跳んだらしいクリップをぽとりとノートに落としてくれる。及川君は口端をむずむずとさせながら目だけを優しげに細めていた。なんとなく、人間に化けた魔物がうっかり尻尾を出してしまったときのようだと思った。

「及川、退屈ならここ解けー」

 先生に当てられ、しどろもどろに立ち上がった彼のお尻をじっと見る。もちろん尻尾なんて生えていないけれど、シャツを入れ込んだ腰まわりが想像よりずっと太くて、手のひらが汗ばんだ。冷や汗、だと思う。このよくわからない大きな生き物は本当に私と同じ人間なのだろうか。近くにいたらいつか食べられてしまうかもしれない。なんとか正答へ辿りつこうと頭をひねる彼の背後で、私は両手を強く握りしめた。

 席替えの初日にそんなことがあったものだから、私は彼に若干の苦手意識を持っていた。
 関わりを避けようと思ったって、席が近いのだから毎日きっちり数時間、私は彼の行動範囲内で過ごすこととなる。学生って不自由だ、なんて思いながらも、気まぐれな彼の突拍子もない言動に慌てふためく他なかった。お腹すいたね、と言われればすいていなくても曖昧に頷いたし、ここテストに出るかな? と聞かれれば律儀に考えて首を振ったりした。彼はそんな私の必死の応対を気に入ったのか、一週間経つころには休み時間ごとに椅子の向きを変え、たわいのない雑談を振ってくるまでになった。二限と三限の間に必ず菓子パンを食べる及川君は、三色パンの一箇所をちぎってくれたり、牛乳パンのおいしい食べ方を教えてくれたりした。

「牛乳と牛乳パン、一緒に食べたらしつこいと思うでしょ?」
「……どっちも牛乳だからね」
「ところがどっこい、めちゃくちゃ合うんだ」

 今日び「ところがどっこい」なんて言葉を使う高校生がいるんだな、なんて思いつつも彼が言うとかわいらしく聞こえるから不思議だ。名前ちゃんはもう少し太った方がいいよ、とデリカシーのないことを言いながら、彼はやはりパンを半分くれた。たぶんだけれど、及川君は私のことを飼育小屋のチャボくらいに思っているのだと思う。暇つぶしにかまったり、つついたり、食べ物をあげたりするにはちょうどいい存在だ。他意はないとわかっていても、こちらとしてはいちいちドキドキしてしまう。
 そんな揺れ動く私の自意識を打ち砕いてくれたのは、まさに彼本人だった。

「お前、後ろの席の名字さんいじめんのヤメロよ」

 移動教室の授業は彼と唯一距離ができる時間である。友達と美術室へ向かう途中、絵の具セットを忘れたことに気づいた私は急いで廊下をかけ戻った。しかし階段の手前で、クラスメイトのそんな言葉が聞こえてきて、立ち止まる。

「えー? いじめてないよ。かわいいな〜と思って絡んでるだけ」
「だから絡むな。おびえてんだろうが」
「それがかわいいんじゃん。俺が勢いよく振り向くだけで目え白黒させるんだよ」
「ほんとタチわりいな。彼女いんだろ」
「それはそれだよ」

 いつだか女子バレー部の友達が言っていたことを思い出す。「及川は顔とプレーはいいけど他はだめ」。顔とプレーがいいならかなりのことは許されるんじゃないかと思ったけれど、実際に彼の興味の対象になってから、私のメンタルは散々だ。なまじ顔がいいものだから特別扱いのようなことをされると意識してしまう。けれど彼は別の場所にきれいなカナリアを飼っているのだ。飼育小屋のチャボに目移りするはずもない。彼らが階段を下るのを待ってから、とぼとぼと教室へ戻った。苦手と思っていたのは私の方なのに、とても惨めな気持ちだった。

 それから数日が経ったころだ。
 朝練を終え、早弁をして、いつもどおり明るい表情をふりまいている及川君の様子がどこかいつもと違う気がした。重心を真ん中にとってきれいに座る彼の背が、今日はずるずると後ろへもたれている。二限目が半分ほど過ぎたところで、姿勢が悪いのは先生に隠れてスマートフォンをいじっているからなのだと気づいた。目の端にうつる黄緑色の画面。誰かとメッセージのやりとりでもしているのだろうか。前の席から日本史の穴埋めプリントを回されていることに気づき、私は少しだけ身構える。けれど彼はこちらを向きもせず、手だけを返してプリントを送った。彼の長い腕があれば振り返らずとも充分ではある。しかし三限、四限とそんなことが続くと、なんだか無性に顔が見たくなる。何かあったのだろうか。彼は今どんな表情をしているのだろう。そう考えたところで、自分の方から彼に話しかけたことなど今までになかったのだと気づく。
 きっかけが訪れたのは、昼休みが終わり午後の授業も終盤に差しかかるころだった。私は意を決して、彼の背中を軽くつつく。ぴくりと揺れた肩に、私の心臓もつられて揺れる。

「……ん?」
「及川君、あの、消しゴムが」
「ああ」

 彼は私の指の先をたどると、小さく頷いてから床へ手を伸ばした。ぽこんと一度はね、机の上に消しゴムが落とされる。

「ありがとう」
「うん」
「今日、ずっとLINEしてるね?」
「うん。振られちゃったんだよね。さっき」
「え?」

 チャイムが鳴り、みんなが椅子を引きはじめる。にわかに騒がしくなる教室の中で、彼は静かにそう言った。こちらを向いた及川君の顔がいつになく近い位置にある。えんじのネクタイが教科書の上に垂れている。透明な目で私を見つめながら、彼は続けた。

「俺が後ろの席の女の子の話ばっかするから、うんざりしたみたい」

 嘘だか本当だかわからないその言葉を間に受けるつもりはないけれど、朝からこうも様子がおかしいのだから振られたというのは本当なのだろう。それだというのに、彼はどこか愉快そうに口の端をゆがめていた。とっくに気付いていたけれど彼は小悪魔なんかじゃなく悪魔そのものだ。早く逃げ出さないければ食べられてしまうことは目に見えている。けれど根をはったように、私は椅子から立ち上がることができない。

「甘いもの、食べに行こうか」
「……お菓子パン?」
「そんなんじゃなくて、もっといいやつ。ケーキとかさ」

 本当に、食べるのはケーキだろうか。部活がない日の彼は暇と力をもてあましているのだと前に誰かが言っていた。私はいよいよこの大きな生き物の胃袋におさまるのかもしれない。チャボなんて食べたっておいしくないよ、と思っていたのに、気づけば首を縦に振っていた。その目で見られると私は自分の意思すらあやしくなるのだ。

2016.11.1

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