awake



「げ」

 人の顔を見るなり濁った声をあげた彼の名前は、ふたくち。ふたくちけんじ、十六歳。

「げ、はないんじゃないの。けんじくん」

 よく晴れた空の下で茶色の髪がゆれている。私なんかよりずっとやわらかく、素直そうな質の髪だ。私はそれが昔から羨ましくて、突っついたり引っ張ったりしては怒られていた。

「……相変わらず生意気な。お前いつ帰ってきたの」
「先週末。おばさんから聞いてない?」

 生意気と彼は言うけれど、私と彼は一つしか違わない。小学校の半ばごろまではそれすら意識していなかった。歳が上がるにつれ一学年の差というものを感じるようになり、ちょうどその頃にバレーを始めたけんじくんは、体育会特有の縦社会性を身につけてなんだか話しかけづらくなったのだ。少し残念だったけれど私はバレーをするけんじくんが好きだった。中学に入り背が伸びた彼は私の友だちの間でもかっこいいと評判だったし、やることなすことそつがなく、なにをしても様になった。彼の幼馴染であることを、私は密かに誇らしく思っていた。
 なので彼と同じ中学に行けないと知ったときはとてもショックだった。父の仕事の都合で東京へ越すことになり、別れを惜しんで彼に手紙を書いたことを覚えている。今思えば中学生の男の子が小学生の幼馴染みからかわいらしい便箋をもらったところで困るだけだろうに、彼は律儀にも受け取り、お返しにお菓子を買ってくれた。私は新幹線でそれを頬張りながら、恋って甘じょっぱいものなんだな、なんて思ったりした。私の中では一応初恋ということになっている。

「聞いてたけど忘れてたわ」
「ああ、そう」

 なのでまあ、実のところ今日はドキドキしながらこうして彼を訪ねたのだ。テンションの差は予想していたより大きいようで、けんじくんはそんなことを言いながらたらたらと靴紐を結んでいた。肩透かしといえばそうだけれどしょうがない。玄関先で立ち上がった彼はあの頃よりもっと背が高く、肩は厚く、さらにいえば若干目つきが悪くなっていた。私の通っていた中学の裏に工業高校があったけれど、そこに通う男子高校生たちはたしかにみんな迫力があった。彼らと下校路がかぶらないように遠回りする子たちだっていたほどだ。伊達工業の偏差値は低くないし、荒れてるという噂も聞かないれど、やっぱりガラの悪い人たちもいるのだろうか。彼の友だちはどうなのだろう。けんじくんは今もバレー部に入っていると聞いた。強いのだろうか。ポジションは? 背番号は? 次の試合は? 聞きたいことはたくさんある。けれどジャージのポケットに手を入れて、猫背気味に歩く彼を見ているとなにも言うことができない。

「けんじくん」
「ん」

 怒っているわけではないのだと思う。でも何を考えているのかがわからない。そもそも考えてみれば中学の頃だって、クラスの男の子の心の中なんてちっともわからなかった。幼馴染みといえど、歳も性別も違う上、何年も会っていないのだからこんなものかもしれない。
 急に心細くなって、私はなんとか昔に戻るきっかけを作ろうと、彼の頭に手をやった。指先で触れると、昔と変わらないやわらかさがあり安心する。彼は少しだけ目を見開いて、それから困ったように首をかしげた。

 伸ばした腕にじりじりと太陽が照っている。こんな顔はよく見たな、と懐かしく思いながらも、だんだんと照れくさくなって目を細める。今年の夏はどんな夏になるのだろう。彼の頭はずいぶん高いところにあるので、腕がしびれてしまいそうだ。




「あ」

 惚けた顔で俺を見下ろしているこの女は、名字名前。一歳下のいわゆる幼馴染みというやつで、昔っから俺の周りをうろちょろとしたがる小動物のようなやつだった。
 ドアを開け入ってきた彼女は、夏の太陽を逆光にしてそわそわと俺を見つめていた。思わず口から変な声が出る。帰っていることは知っていた。だから慎重に動いていたのだ。

「聞いてたけど忘れてたわ」

 そんな嘘を吐きながら、スニーカーの紐を引っ張った。ぱらぱらとほどけたそれを本当はきつく結び直したかったけれど、走りに行く気も削がれてしまったので適当に結って立ち上がる。

「ロードワークじゃないの?」
「まあ、そのつもりだったけど。どうせお前ついてくるんだろ」
「邪魔?」
「べつに」

 身長差はむしろ大きくなっているのに、小動物だなんて甘く見ることはもうできないと思った。ハムスターみたいに丸かった彼女の肩はするりと細く、別人どころかまるで別の生き物のようだ。昔っから愛嬌のある顔をしていたため年上にはよくかわいがられていた。けれど人懐っこい表情をそのままに、シルエットだけ女みたく変化させているものだからこちらとしてはどう対応していいかわからない。お前ポケモンだったの? 第三形態もあるんじゃねーだろうな、なんて言おうものなら殴られそうだ。いや、この女が今さら俺を殴ったりするだろうか。昔はぽかぽか叩き合いをしたものだけれど、今の名前はそんなことを言ったら、控えめに眉を寄せて呆れそうな雰囲気すらある。それは俺がもっとも困る反応だ。迷った結果、俺は口をつぐむしかなかった。

「名前ちゃん、こっちに戻ってくるらしいわよ」母親からそう聞いたときははっきりいってどうとも思わなかった。ぱっと思い浮かんだ彼女の顔はガキそのものだったため、なんとなく面倒くさく、関わり合いは最小限にしようなんてぼんやり考えていた気がする。俺が高二になったのだから彼女だって成長しているのは当然なのだけれど、数少ない工業高の女子や街で見る他校の女子高生と、彼女のイメージが全く重ならなかったため感想はそこまでだった。
 けれど先週の土曜日に、はす向かいの玄関から女の子が出てくるのを見て、俺は衝撃を受けたのだ。名前は一人っ子なのだから、あの家から名前に似た女子が出てきたのだとしたらそれは名前に他ならない。そうわかってはいても、彼女によく似た親戚のお姉さんなんじゃないかとか、似た感じの友達を家に呼んでたんじゃないかとか、俺はなぜか必死になって否定ばかりしていた。
 けれどやっぱりあれは彼女だったわけだ。
 隣を歩く白いうなじを見て思う。昔からきゅっと一つに結んで毛先を揺らしているやつだったけれど、長く垂れるポニーテールは印象がまったく異なり間違っても引っ張ることなんかできない。そう思ったのに、彼女は俺の方へ手を伸ばし「けんじくんの髪、相変わらずきれいな色」なんて笑った。

「肌、脱色したのかよ」
「え?」
「しろ……」
「去年の夏は受験生だったから。あんまり遊んでなくて」
「ふーん」
「だから今年はいっぱい出かけたいな。せっかく宮城、戻ってきたし」

 名前の笑顔はこうして見れば昔の面影を残している。まぶたの形が急になつかしく思え笑いそうになった。彼女の目に俺はどう映っているのだろう。そんなことが今さら気になって、もう少し気の利いた態度をとればよかったと後悔した。

「菓子でも買ってやろうか」
「え! 甘じょっぱいやつがいいな」
「……? じゃコンビニ行くか」

 彼女はとても嬉しそうだ。今年の夏はいい夏になるのかもしれない。


2016.10.26

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