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 日暮里駅の構内はいつもより閑散としていて、いまだ頑張る山手線から吐き出される人の数も減りつつあった。電光板を見上げるが、遅延を繰り返したそれは用をなさず、代わりにスマートフォンを灯す。

6時半には着くとおもう

 メッセージの後にはおじぎをするアライグマのスタンプが押されている。なんとなく彼女に似ている気がして笑ってしまう。こんな日に外へ出るとただでさえアドレナリンが出るというのに、久しぶりに名前と会えることも相まって心臓がふつふつと熱を持っていた。数時間前までのローテンションが嘘のようだ。予告の時間から十分を過ぎた頃、階段から上がってくる人の流れの中に名前の姿を発見し、手を振った。

「ごめんね、遅くなって!」
「平気。てかお前、ほんとすごい状態だね」

 俺にしたってここに来るまでの間にずいぶん濡れたけれど、防水のウィンドブレーカーを羽織っていたおかげで服は無事だ。一方の彼女は壊れた傘を片手に、頭からつま先までくまなくしっとり水浸しだった。足元には泥が跳ねている。転んだと言っていたがそのためだろうか。

「こんな格好でお邪魔するの、申し訳ないんだけど……」
「いーよ、着替えあったかな」
「おかまいなく」

 さらに強くなりつつある風雨の中、飛んでいきそうな名前の手を引きながらなんとかアパートに辿り着く。「おじゃまします」と遠慮がちに俺を見た彼女の目尻にはじわりと化粧の黒がにじんでいて、なんだか違う女のようだった。とっさに目をそらし、洗面所のラックからきれいなバスタオルを漁り出す。濡れた犬にするように頭からかぶせ、無造作にかきまわすと彼女はタオルの中でわあわあと騒いだ。

「シャワーあびちゃいな」
「いいの? 助かる」
「服、適当に出しとくから」

 自分の髪を大まかに拭きながら、名前をユニットバスに押し込む。見当をつけていた小さめのTシャツがカラーボックスのどこにも見当たらず、いまだ開けていない押入れの段ボールを探すのも面倒だったため、部活で使っている練習着のインナーを取り出した。長袖だがぴったりしているため女子でも着られるだろう。ひも付きの短パンとセットにし、洗面所のドアをノックする。

「まだ平気?」
「あ……うん!」

 中からの返答に小さくドアを開けると、名前はキャミソール一枚の上半身をタオルで軽く隠しながら振り向いた。ぜんぜん平気じゃないと思ったが、彼女はあまり気にしていないらしい。俺も素知らぬ顔を決め込んで着替えを手渡す。洗面所の蛍光灯に照らされた彼女の腕は嘘のように白く見えた。
 ドアを閉め、わけもなく部屋を二周してからベッドの脇に腰を下ろす。そういえば親戚の家の犬は何か訴えたいことがある時こうやってぐるぐると歩き回っていたっけ、と思い出し恥ずかしくなる。テレビをつけて気を紛らわせつつ、待つこと十五分。

「徹、ドライヤーってある?」

 そう言って出てきた名前に首を振りながら、俺はある種の感動を覚えていた。ぴったりしているはずの練習着がふんわりと余裕をもって彼女の体を包んでいる。俺が着れば七部丈の袖が、手の甲を隠しているのがなんとも可愛らしい。首元はこんなに空いていただろうか。

「えっないの!」
「ない。ガーって拭いて自然乾燥してる」

 信じられないというふうに目を丸めている彼女は、化粧をすっかり落とし俺の知る名字名前に戻っていた。ほかほかと湯気をたてる名前を見ていたらなんだかお腹が空いてきたため、何かなかったかと食料棚を漁る。

「レトルトのカレーでいい?」
「ありがと。なんかごめんね。お礼に夕飯作ろうかななんて思ってたけど」
「残念なことに、食材がないんですよ」
「みたいだね。自炊してないの?」
「まあ、ぼちぼち」

 米を炊いたり麺を茹でたりはするけれど、おかずの類は限界があった。成長期には気にしていた栄養バランスも近頃は学食に頼りきりだ。自活をはじめて半年、食生活に関して学んだことといえばスーパーの惣菜がいつ値下げされるかと、プロテインを大量購入できるドラッグストアの場所、そして野菜ジュースの味の違いくらいだ。大手メーカーの野菜ジュースならラベルがなくたって当てられる自信がある。ふつふつと沸くお湯の中にチルド袋を投入し、凍らせてあったご飯玉をレンジにかける。カレーの時はヨーグルトと決めているので、冷蔵庫からパックを二つ取り出した。

「はいどうぞ」
「おいしそう。レトルト便利だよね」
「お前は? 料理すんの?」
「……ぼちぼち」

 照れ笑いしているが、彼女は昔からお菓子作りなんかも上手かったし、俺の数倍はきちんとしているのだと思う。濡れたままの彼女の髪を見て、バレーボール以外のことにつくづくエネルギーが向かないものだと自分を省みた。「洗うよ」と食器を片す名前の後ろで、俺はまた考える。恋人のいる日常とはこういうものだろうか。だとしたらなんだか凄く良い。「寂しいから付き合うなんて不純」と先輩に大見得をきってしまった身でなんだが、LINEをしたり待ち合わせをしたり、たまにこうして部屋に遊びに来てくれる女の子がいたら俺も根を詰めすぎずに済むのではと思う。自炊だって見栄で少しはするかもしれない。

「あれ、徹、東京ウォーカーなんて読むんだ」
「読まないよ。デートする相手もいないし」
「そうなの?」
「それ、さっき窓に激突してきたやつ。めちゃくちゃびびった」

 びびったけれど、それがなければ彼女は今ここにいなかっただろう。八つ当たりして捨ててしまったけれど、乾かしてとっておけばよかったかもしれないと今更思う。窓の外はいよいよとばかりに吹き荒れて、安い賃貸アパートは時折りみしりと軋んだ。

「一緒に寝る?」

 まだ十時にもなっていないけれど、今日は朝から空が暗かったためもう深夜のような気持ちだ。ベッドに寝転がりながら、テレビを見ていた名前の髪を後ろから軽く引っ張る。毛束は乾き始めている。

「べつにいいけど」
「……いいの?」

 怒られるか流されるかして終わると思った戯言を、さっくりと肯定され脳みそが混乱する。起き上がり彼女の背後であぐらをかくと、彼女もまた振り返って俺を見た。

「だって徹、私のこと女と思ってないでしょ?」
「……」
「布団一枚しかないだろうし」

 一年前の出来事を考えれば、そう思われていても不思議ではない。あのとき俺は彼女を抱きかかえて随分ぐっすり眠ったし、くっつきあって寝る猫か子どもか、という色気のなさだった。異性同士としてはありえない距離感だったのだから、異性と認識されていないと彼女が思うのは当然だ。けれど俺はあれから馬鹿みたいに悶々としたし、おかしな夢だってみた。その罪悪感からなんとなく避けるようになり、疎遠になるだなんて、中学生でもしないような葛藤を経て今に至るのだ。部活ばかりして受け身の恋愛しか経験してこなかった俺には、そんな青臭い気持ちは新鮮すぎて対処できなかったのだ。
 雨に濡れて数時間体を冷やした名前は疲れがたまっているのか、言うや否やベッドに這い上がり枕に顔を伏せた。うつ伏せの彼女のくびれとお尻を見つめまいと、俺はあわてて電気を消す。どうしようかと迷ったけれど、拒む理由など一つもないため俺もいそいそと布団をめくる。洗いざらしの髪に頬を寄せ、前と同じように背後から腕を回した。ふにゃりとした感覚。思わず目の前のうなじに鼻先をつける。それでも彼女はなんの反応も示さない。

「ねえ、お前、本当にこのまま寝るつもり」
「……徹こそ」

 俺の問いかけに、名前は少しだけ身を丸め、腰に乗せた俺の手に手を重ねた。

「ほんとうに私のこと女として見れないの」

 呟くようにそう言ったきり黙り込んだ彼女に、全身の血が逆流するような心地がした。窓の外はまさにクライマックスといった様子だが、俺の心はそれ以上に荒れている。

「そんなわけないでしょ、お前この、これ、女じゃなくてなんなの」
「……だって! 徹いっつも私のこと犬みたいに扱うし、なんにも感じないみたいだし」
「めちゃくちゃ感じてるよ! ふざけんな!」

 肩を引いて覆いかぶさると、彼女は「そうなの?」と言って首を傾げた。暗闇の中でも目をまん丸くしている名前の顔くらい想像がつく。ここへきてそんな表情ができるのだから彼女の呑気さには呆れ果てる。このまま強行突破してもよかったけれど、性欲を感じる以上に幼馴染みとしての親愛を感じてしまっている彼女に、ひどいことはやはりできない。俺は一度大きく息を吸い、彼女のかたちを確かめるよう、親指でゆっくりと頬を撫でた。

「……ここ最近、ずっとお前のこと考えてたんだよ。ていうか、一年くらい前から」
「な、なんで?」
「なんでだろね」

 答えはご想像にお任せして、そろそろ口を塞いでもいいだろうか。押しつぶさないよう慎重に体を寄せて、唇に小さく吸い付く。

「一人暮らし、たのしい?」

 俺の方こそ、この状況でなぜそんな色気のない質問をしてしまったのかはわからない。彼女は少し考えた後、やはり小さな声で答える。

「たのしい。けど少し、さみしい」

 充分な返答だ。欲求に従って、もう一度深くキスをする。俺たちの関係は今日で変わってしまうかもしれないけれど、その先の心配はしていなかった。きっと全てがうまくいく。走り出してしまえば俺に怖いものなどないのだ。それに、台風が去った後には晴天が広がると昔から決まっているじゃないか。


おわり
2016.9.8

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