部活を終えてからの半年はあっという間だった。終わりではなく、次へ向けた一足先のスタートだったのだから当たり前だ。自分を見つめ直し、体勢を立て直し、長く助走をとって足を踏みしめる。跳び立つ先は北の大地のむこう、はるか、東の──。
「オイ、この部屋ドライヤーは?」
「それがね〜、持ってき忘れちゃったんですよ」
完璧に荷造りしたつもりの引っ越しだが、当然足りないものはぽつぽつとでるわけで、しかしそれを買い足す余裕はいつまでたっても生まれず、最低限の生活をなんとか続けること一月。もともと生活面に関してわりとモノグサで無頓着な俺は、食料と消耗品、トレーニンググッズにバレー雑誌、それと気に入った私服が三、四着ほどあれば十分なのだ。
「は!? じゃあお前その髪どうやってんの?」
「これね〜、寝て起きたらこうなってるんですよ。形状記憶型っていうの?」
「ふざけんなよイケメン」
口の悪い先輩は青城でもお世話になった二歳上のスパイカーだ。俺のセットは打ちやすいと、誰よりも早く褒め、認め、可愛がってくれた恩人である。慣れない一人暮しは心細かろうと様子を見にきてくれたわけだが、御察しの通りさっそく生活は自堕落をきわめつつあった。思えば末っ子の俺は親兄弟に世話を焼かれることに慣れきっていたし、部活でも教室でも、人に囲まれていることが常だった。一人の時間も必要だと、あえて確保し息をついていたくらいだったのに、いざ一人暮らしを始めてみると自己と向き合う時間が多すぎて気を病みそうだ。「根がクソバカ真面目すぎんだよ」と相棒に褒められた(と認識している)ことは一度ではない。
「彼女でも作れば。お前ならすぐできんだろ」
「寂しさを紛らわすために付き合うってのも、なんか不純かなと思って」
「お前ほんと意外と真面目だよな」
「意外ってなんすか! 俺めちゃくちゃ硬派ですよ!」
「いや硬派ではねえけど」
そもそもドライヤーをかけるほどの長さとも思えない短髪をタオルでこすりながら、先輩は言う。そりゃ高校の頃は、彼女のいる一人暮し生活に憧れたりもした。彼女ができたって互いに不自由な実家暮らしじゃ人目を気にせずいちゃつくこともできない。一方で、孤独とはいえこの六畳一間は俺の城だ。かわいい彼女が遊びに来たりしたら、そりゃ夜だって盛り上がるだろう。
「なんだよ」
「いえ」
「……俺で悪かったな」
「いや、なんも言ってませんよ」
唇を尖らせる先輩を真似して俺も拗ねてみせた。男同士のきがねない会話だって嫌いじゃない。気遣いしいでええかっこしいの俺は、女の子といるとどうしても必要以上に俺らしい俺を演じてしまうのだ。彼女と男友達の中間くらいのやつがいたらいいのにな、と思ったところで、俺の頭にある人物が思い浮かびあわてて首を振った。
半年前、俺の浅はかな行動により一方的に意識してしまい、その後の交流もままならなかった幼馴染み。上京するにあたりようやく激励の言葉をかけあったが、引っ越し先の住所を教えあうには至らずそれきりだ。彼女の通う大学からしておそらくそう遠くはないはずだが、絡まりあった東京の路線図を眺めていたら予想するのもおっくうになった。「名前ちゃん足立区の方で探すらしいわよ、何かあったら助けてあげなさいね」そう言った母親の言葉を思い出すが、足立区とはいったいどこにあるのだったか。
コンビニで買ったらしい缶ビールを開け美味そうに飲んでいる先輩を横目に、目を閉じた。明日も一限から授業だ。明日はくパンツは乾いていただろうか。
*
数十年ぶりの台風、という言葉を数年おきに聞いているのは気のせいだろうか。中止になった部活により行き場のないエネルギーをもてあました俺は、荒れ始めた空を見上げながらため息をつく。これじゃ洗濯物は干せないし、窓を開けて掃除もできない。東京の夏を死ぬ思いで乗り切った九月の半ば、心身の疲れがたまっているのかどうにも気分が冴えなかった。びゅうびゅうと鳴る風雨とは対照的に部屋の中には時計の音しかしない。既視感のあるもやもやの中、ベッドに横たわりボールを弾く。天井に近づいては手元に戻るボールを眺めていたら、ここ数ヶ月ずっと心の端にいた彼女の存在がいよいよくっきりと心に浮き立った。
【台風すごいね】
この街のどこかにいるなら、同じことを思っているはずだ。なんて恋する乙女のようなことを考えながらトーク画面を開き数秒。なーんてね、とクリアボタンを押そうとした瞬間、窓にものすごい勢いで何かが衝突してびくりと指が震える。ポン、とのんきな音をたてメッセージが送信された。いろいろなことが同時に起きてパニックになっていた俺は、ころげる勢いで飛び起きて外を見た。どこからか飛んできたらしいタウン誌がページをバタつかせながら窓に張り付いている。幸いガラスは無事だが、一瞬窓を開けタウン誌を取り込んだ隙に部屋の中はびしょ濡れになった。最悪だ。何が東京ウォーカーだ。こんな日にウォークしたら死ぬわ。悪態をつきながらゴミ箱に放り込むが、ロマンチックなLINEを送ってしまった事実は捨てられない。「バカ……」と声に出して自分を叱責してみたが虚しさが増すだけだった。
そんな俺の負の連鎖を断ち切るように、画面が光る。
【ひさしぶり】
【ほんとすごい。家帰れないかも。】
二つ続けて表示されたフキダシに、またもや声に出して「うおお」と言ってしまう。台風以上に荒れているのは俺の情緒だろう。
【久しぶり。大学帰り?】
【そう。常磐線止まっちゃって】
【あらら、どこ住んでるんだっけ?】
【北千住。いま全身びしょびしょ】
【北千住かあ。ていうか、ちゃんと立ち止まって打ってる? 転ぶよ】
【(笑) 止まってるよ。けどもう一回転んだ】
おいおい大丈夫かと心配になりながらも、俺はあることを思い出していた。あの時も彼女は家に帰れずに立ち往生していた。それを拾ったのが俺だ。冴えない気分でくすぶっていた俺と、行き場所のない彼女。宮城にいても東京に出ても、俺たちの命運は変わらないらしい。それならば選択肢は一つしかないだろう。
【うちくる? 日暮里まで出られればすぐだけど】
先ほどとは打って変わって、俺の腹はもう据わっていた。これしかない。一歩踏み出してしまえば、どうにでもなるだろうというある種の万能感にとりつかれ、強気に出られるところは俺の長所だ。長所でいいんだと思う。
【ほんと? 山手線は動いてるはず!】
彼女の笑顔が思い浮かび、胸のもやつきが晴れた気がした。フンフンヌフーン。知らずに鼻歌がこぼれる。「変なの」と彼女はまた笑うだろうか。
つづく
2016.9.5