加速して春1



 調子のいい鼻歌も出てこないような、冴えない帰り道。すかすかの鞄を肩にかけながら路地を曲がると、見知った後ろ姿が目に入り少しだけ歩調を早めた。

「何してんの?」
「あ」

 道の端に立ち止まり、俯いている彼女に声をかける。記憶より伸びた髪が頬にかかっているのを見て、最後にちゃんと話をしたのはいつだっただろうかと思った。

「お腹でも痛いの?」
「ううん、LINE送ってただけ」
「立ち止まらないと送れないんだ」
「うん」

 呑気に、すこし恥ずかしそうに笑った彼女の顔を見て、相変わらずマイペースなやつだなと思う。

「早いね、徹」
「もう引退したし」
「そっか」

 無理に会話を取りつくろう仲でもないため、そのまま口を開くこともなく並んで家路に着いた。気を使う相手ではないにしろ、特別仲睦まじいというわけでもない。幼馴染みというのは不思議なものだ。先に見えた彼女の家には昔から変わらない凝ったガーデニングが施されていて、花のことなんてわからないけれどよく手入れされているのだろうと、彼女の母親のマメさを思い出す。車は、昔キャンプに行った時とは変わっているようだった。毎日通るのにあまりよく見ていないものだなと気付く。
 彼女は白い門を手で押して「じゃあね」と振り返った。なんとなく立ち止まった俺は一段高くなった彼女の顔を見つめ「お前さ」と問いかける。

「大学決まってんの?」
「うん一応、推薦で」
「東京?」
「東京」
「ふーん」

 ふわふわと聞き流しながらポケットに手を入れて、再び歩き始めようとした時、名前が「あっ」と声を上げた。

「なに?」
「……鍵、忘れた」
「家誰もいないの?」
「うん……」

 眉を下げすごすごと戻ってきた彼女は、スクールバックの紐を握りしめ俺の横を通り過ぎる。

「どうすんの?」
「駅戻る。喫茶店で時間潰す」

 初めてのことじゃないのか、諦めたようにそう言った彼女を見て、つい口を開いてしまった。

「うち来る?」

 言った途端、それしかないという気持ちになり、俺は自分が人恋しかったらしいことに気付いた。「いいの?」と驚く名前に「いいよ。おもてなしできないけど」と笑い前を向く。後ろから小走りで着いてきた彼女に、近ごろ引っ込みっぱなしだった鼻歌がもれた。フンフンヌフーン。「それ久しぶりに聴いた。変だよね」ふきだす彼女の頭をこづく。なんだかすごく楽しい気分になっていた。



 風邪を引くわけにはいかない生活を長くしてきたため、丁寧な手洗いとうがいがすっかり習慣づいてしまった。あまり使うこともなくなった部活用のタオルで手と顔を拭き、キッチンへ向かう。
 彼女を呼んだ時も友達を呼んだ時も、岩ちゃんが部屋に来る時ですら必ずお茶とお菓子を出してくれる母親に習い、お客さんセットを用意して階段をのぼる。お盆の上の氷入り麦茶とお菓子カゴを見て、名前は「気使わせてごめん」と申し訳なさそうに言った。昔から俺が名前の家に遊びに行くことはあったけれど、その逆は少なかったように思う。バレーを始めてからはとくに名前に声をかけることも減ったし、岩ちゃんは部屋でじっとしていられないタイプの小学生だったためインドア派の名前はあまり俺たちに興味を示さなくなった。と、当時は思っていたけれど、ただ遠慮していただけなのかもしれない。本当は寂しかったのだろうか。

「徹の部屋ひさしぶりだけど、あんまり変わってないね」
「部活入ってからは寝に帰ってたようなもんだしね」
「あ、この漫画懐かしい」
「読んでていいよ。他なんもないし」

 自分で用意した焼き菓子をぱくぱく口に放り込み、お茶で流し込んだ後、自室ということで日頃のリズムをくずそうとも思わなかった俺は深く考えることなく制服のズボンを脱ぎ、ハンガーにきっちりかけてからジャージをはき、次いでワイシャツも脱ぎ捨てた。裸のまま洋服ダンスを漁っていると漫画から目を上げた名前と目が合い、沈黙が走る。こういうのまずいんだっけ? と今さら気にしたところでもう遅いのだが、名前がそそくさと背中を向けたため悪かったかなと思った。でも彼女にしたって俺のそんなのを意識することもないだろうしと、昔から好きだった少年漫画を読みふける後ろ頭を見つめ、あることに気付いた。伸びた髪の隙間からわずかに覗いている耳が、わずかでもわかるくらいに赤い。思わず変な声が出そうになったけれど、飲み込んで、ついでに唾も飲んだ。おかしな虫が体の中でざわざわと騒ぎだすのを感じる。付き合い初めの女の子を部屋に連れ込んでいる時に出てくる、あの落ち着きのない虫だ。

「それ、貸してあげようか?」
「ほんと?」
「何巻読んでんの」

 とっくに服を着たと思っていたらしい名前は、俺の声にちらりとこちらを振り返り、固まった。ぎくしゃくとぎこちなく戻っていく首に顔を近づけ、後ろから漫画を奪い取る。

「ちょっ」
「三巻かあ〜、ってお前、赤すぎ!」
「着て!」
「意識してやんの。名前こういうのダメな子?」
「ダメじゃない子とかいるの!? や、離して!」

 漫画を放り、彼女の肩に背後から腕を回してそのままわけもなくゆさゆさと揺すった。混乱を極めた彼女は俺の手首を必死で掴みなんとか振りほどこうとしている。打って変わって最高に楽しい気分になっている俺は、そのまま調子に乗って体重をかけた。二人の体重の差を考えればまあ当然だが、いきおいよく畳に転がり込んだ俺たちは二人してぎゃっと色気のない声を出す。うっかり名前をつぶしてしまわないように、咄嗟に肘をつき隙間をあけた。肩の柔らかさからして、少しでも力加減を間違えれば中の綿が出てしまいそうだ。俺と同じ骨と肉で形成されているとはとても思えない。

「わ、ひゃ、どいて」
「んー、ねむうい」

 畳の部屋というのは女の子からしたらお洒落でもなんでもないだろうけど、こうしてどこででもゴロゴロとイチャつけるという利点がある。名前の脇にどしんと寝転がり、まず上半身を囲い込み、それから足を巻き付けて捕獲した。ちょうどいいサイズで体の内側に収まった柔らかな物体に、脳みそがふにゃふにゃとゆるんでいく。そういえば、朝練もないというのに最近はずっと寝不足だ。自主練をいくらしようと運動量は減っているため、体がうまく寝付けないのだ。それにきっと、体だけのことじゃないのだと思う。
 名前を抱き締めていると、穏やかな安心感とほのかな性欲が頭の中を気持ちよく満たし、自然と体から力が抜けた。

「ちょっとこのまま……」
「わかったから服着て!」
「うーん」

 良い匂いの髪の毛に鼻を埋め、生返事をしながら目を閉じた。からかうだけのつもりだったのに、思ったよりも離しがたく、思ったよりも深みにはまってしまっている自分がいる。体にとりついていた余計なものが浄化されていく気がして、抜けていく力そのままに、意識をゆるめる。
 とろとろとした夢の中と名前の感触を行き来しながら、どれくらいの時間が経ったかもわからなくなった頃、ふいに体が涼しくなってガクリと意識が浮上した。離れていこうとしている足を、反射的に掴む。

「わあ!」
「……どこいくの」
「ふ、布団、なにかかけないと……風邪引く」
「ああ……」

 目をこすりながら重たい頭を持ち上げて、部屋の端にたたんであった敷き布団を引っぱった。中に巻き込んであった薄掛けの毛布ごと大きく広げて、立ち尽くす名前を抱きかかえながら倒れ込む。ごち、と頭がぶつかって息を呑んだ。こいつはなぜか頭だけは俺より固いのだ。

「いたた、寝るよ、一緒に」
「寝るって……」
「おねがい、寝不足でつらいから」
「……」

 再び足を絡ませると、諦めたのか彼女も体の力を抜いた。顔ごと抱き込まれ苦しかったらしく、うんうんと唸るため一度ゆるめ後ろを向かせる。背後から触れると自然と胸に手が当たってしまい、慌てて名前はガードしたけれど、俺がなんの反応も示さないことを悟ると身じろぐのをやめた。ちょうどいい量の快楽物質がまた、頭をぼやかしていく。今度こそどこからか落ちるように、俺の意識は完全に消えた。



 目が覚めたのは、すっかり日が沈んだ後だった。時計を見れば夜七時。どのタイミングで抜け出したのか分からないが当然名前の姿はなく、いろいろなことが気にかかる。両親は当然帰ってきている。しかしさすがに幼馴染みを裸で抱え込んでいるのがばれたらその時点で怒鳴られるはずだ。彼女は無事帰れただろうか。ぼさぼさの頭のまま部屋の中をうろついていると、PC机に一枚の紙を見つけた。

『帰ります。夕方にはお母さん帰ってくるので。上げてくれてありがとう。疲れてるみたいだから起こさないよ。』

 ごく冷静な文章からさっきまで顔を赤くしていた名前の気配は感じとれず、なんだかおかしく思う。けれどどうやら早い時間に離脱したようだ。ほっとして息を吐くが、考えてみればずいぶんなことをしてしまったと思った。女の子を布団の中に引っ張り込んで添い寝で済むなんて、普段の人並みにヤりたいお年頃の自分からしたらおかしな話だし、けれどすっきりと疲れがとれているのだからそれなりに有意義な時間だったということなのだろう。
 しかし疲れはとれているが、改めて意識した途端、抱き込んだ感触やすぐそばで漏れていたあたたかい吐息などを思い出してしまい、たまらない気持ちになる。睡眠欲が満たされたとたん、むくむくとふくらんできてしまった性欲になんだか切なくなった。「徹、起きたんならご飯食べちゃいなさーい」階下から聞こえてきた声に、そのうえ食欲まで満たしてしまったらいよいよ浮き彫りになってしまうじゃないかと気が沈んだ。きっとおそらく、これからさき名前を抱いてしまいたいという欲求は、それが達成されるまで延々と悶々と俺を苛むことになるだろう。学校で顔を合わせるのが、つらい。これを恋と呼ぶのはすこし気が引けるが、切ない体と心はほてったまま冷めそうにない。

2016.8.19
ハイキューの日記念!

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