運命でない僕ら



「名前、もう平気?」

 声すらいつもと違う気がして、妙に肩がすくんでしまう。伏せていた顔をちらりと上げて振り返ると、裸の及川が心配そうに、けれど若干の笑みを浮かべながらこちらを覗き込んでいた。

「なんで笑ってるの!?」
「だってかわいいんだもん。どうする? 今日はやめといてもいいんだよ?」
「……でも」

 彼の部活の定休日と、午前授業が重なることなんてきっとこの先しばらくない。二人だけで自室にこもってあれやこれやするチャンスだって、今日を逃したらいつくるかわからないのだ。付き合い始めて半年、焦ることなく待ってくれる及川は余裕があると思う。一方の私は、我慢させているんじゃないかとか、私の魅力不足なんじゃないかとか、悶々と考えてはあいかわらず可愛げのないことを口走っていた。

「だから気にしすぎだって。普段はざっぱくなくせに、どうして恋愛になるとそんな自信なくしちゃうのお前は」
「自信がないんじゃなくて……」
「うん?」
「及川が私を好きでいてくれること、奇跡みたいに思ってるから、不安なんだよ」
「……さすがにこの体勢でそれ言われるとキツイよ及川さんも」

 うつ伏せる私の横に手をついて様子を伺っていた及川は、呆れながら体を起こしベッドの脇に腰かけた。つられて私も起き上がる。彼の綺麗な背筋と肩甲骨が目の前に見え、涙が出そうになった。
 やましい気持ちを互いに意識したうえで迎えた今日のお部屋デート。キスをして抱きあって、ベッドに倒れ込んだところまでは順調だった。触れてくる彼の手や口にドキドキしながらも、とろけるような心地よさに、ちゃんと最後までできそうだと安心した。私もそこらの恋人たちのように、セックスをして相手との距離を限りなくゼロに近づけられるのだと思ったら、一人前になった気がして優越感すら芽生えたほどだ。
 けれど私の胸に顔をうめていた彼が背を起こし、ワイシャツを脱ぎ去ったとき、急に私の中で許容量が振り切れて、待ったをかけてしまった。
「え」と固まった及川の、厚い胸や割れた腹筋が私のなにかを打ち崩した。自分が脱がされるのは耐えられたのに、相手が脱ぐのには耐えられないなんて自分でもおかしいと思う。でも、この絵に描いたような体付きをした男の子が、迫ってきて私の素肌を抱きしめるのだと思うと正気ではいられない。服越しに感じたって胸がねじ切れそうになる体温だ。汗ばんだ及川の熱い肌を、直に感じるなんてリアルすぎてとても無理だと思った。

「すこしだけ待って」

 私はそう言って、茹でだこのようになっているだろう顔を枕に押し付けた。言われた通りおとなしく待っていた及川は、五分だろうか十分だろうか、とにかくそれっきり反応をなくした私を心配し声をかけてくれたわけだが──あいにく、まだ全然平気なんかじゃない。
 付き合い始めたのはちょうど冬だ。私は軽装の彼を間近で見たことがない。そして今日の彼は軽装どころか裸だ。ベッドの端でじっと前を見ている及川はいつのまにか制服のズボンを脱ぎさっていた。背を丸めているというのに、圧倒的な体格の良さを感じる。体育館やコート上の彼を遠目から見るときとは比にならない迫力が、その綺麗な体に宿っていた。ボクサーパンツなんていうものを考えた人間は本当に罪だと思う。トランクスならまだ耐えられたかもしれないのに、ぴったりと顕になった腿のたくましさに、目のやり場がない。

「ねえ、そろそろ振り向いていい?」
「……ま、だ、だめ」
「さっき一度見たじゃん」
「私が見れないの!」

 まだと言っているのに、及川はベッドに膝をのせてこちらを振り返った。その顔にはやはり笑みが浮かんでいる。さっきまでとは違い、いくぶん悪どい笑顔だ。太い二の腕が檻のように近づいてきて、私を囲う。視界が及川の色でいっぱいになる。

「……! おいかわっ」
「なに、名前ちゃんエッチだね。俺の体でそんなんなっちゃうなんて」
「おねがいやめて、今そういうこと言われたら涙でる」
「泣いてる女の子好きだよ」
「やだやだ、はじめてなのに!」
「はじめてだから出来るだけ優しくしようとしたのに、名前がそうやってどんどん自滅してるんじゃん。さっきまでならやめられたけど、もう無理そうだからね」

 揉めている間に完全に押し倒され、中途半端に羽織っていたブラウスを退けられる。いつもよりさらにあったかい及川の指が脇腹を掴んだかと思うと、首筋に吸いつかれ喉が震えた。体ごと覆い被さられ、大きな動物のオスに捕食されている心地になる。服をまとわずに向き合うことがこんなに心を無防備にするだなんて知らなかった。このまま食べられて、骨一つ残らず彼の腹におさまってしまいそうだ。たまらなくなりまたうつ伏せに寝返りをうつと、ひょいと腰を抱えられあっという間に裏返される。彼の大きな手にかかれば私の体は人形のようだ。

「もうそっち向くな」
「むり、しんじゃう」
「夜なら電気消せるけど……まだ昼だし。がんばって」

 明るいうちからこんなことをしている自分に後悔がつのる。腰を持ち上げられたまま、抜きとるようにするりと脱がされて、もう私にできることは力を抜くことだけなのだと悟った。

「んっ……おいかわ」
「ねえ、苗字呼び、クラスメイトとしてるみたいで気がひけるから」
「……クラスメイトじゃん」
「彼女でしょ」
「……とおる?」
「そう、名前で呼んで」

 彼がつぎつぎ仕掛ける雰囲気作りに翻弄され、もう頭が溶けてしまいそうだ。私みたいに経験のない女が及川とセックスをするなんて、ハムスターがライオンに喧嘩を挑むようなものだ。爪先で転がされただけで致命傷を負うのは目に見えている。彼は私をなるべく傷つけないよう力を抑えながら、それでも歯が立たないほどの強引さをもって私の体を制圧する。及川の経験人数なんて知らないし、他に比べられる人なんていないけれど、自分の体を操ることのうまい及川のセックスは初めての私でもいさぎよく体を預けられる安心感のようなものがあった。彼は私の体を気遣いながら、上手に自分の欲を解消していく。きついはずの中で彼が動くたび、なぜか力が抜けて、ずっと昔から彼とこんなことをしているような錯覚に陥る。

「名前のなか、好き」

 オスの力で私のことを抉っているくせに、みょうに甘えた声でそう言われ体の真ん中にぞくぞくと震えがはしった。

「名前も俺のこと好きになって」
「……あ、もうっ、すき」
「体も」
「からだ、も、すきだよ」

 そんなことを言いながら腰を押し付けてくるものだから、せっかく緩んでいた足に力がこもり、彼を不必要に締めつけてしまう。目の前にある及川の胸と首と喉仏が、私の世界のすべてのようだ。内側から汗をかいているためか、いつもふわふわと揺れている彼の髪が少しだけボリュームをなくしている。そんな様も初めて見たため、今こうして彼と新しい繋がりをもっていることを実感し涙が出そうだ。ぽたりと垂れた汗から、及川も必死であることがわかり嬉しくなった。息遣いがだんだんと速くなって、彼の腰がぶるりと震える。


「……ごめんね、俺だけ気持ちよくなって」
「だいじょぶ」
「ちょっとずつね。他のしかたも教えてあげる」

 あんなに汗をかいていたわりに疲れた様子もなく、すっきりとした表情を見せながら及川はそんなことを言った。満足げだが、少し刺激すればまたいたずらを始めそうな雰囲気でもある。私は力の入らない手足をタオルケットの中にひっこめて「うん」と一言返事をした。

「大丈夫だよ今日はもうしないから。そんな怯えないでよ。怖かった?」
「おびえてないよ、こわくもなかった……うそ、ちょっとこわかった」
「頑張ってくれてありがとね」

 及川はゴムをゴミ箱に捨て、パンツだけはくと、ごろりと寝転がってタオルケットごと私を抱きしめた。あんなに異世界のモノだった及川の裸が、すっかり自分の一部であるように感じられ、私はこの数時間のうちに自分の世界を塗り替えられたのだなと思う。そう思ったら今度は離れがたくなって、つい「次いつできるかな」なんて呟いてしまった。

「う、せっかく余裕気取ろうとしてんのに、やめてくんない……」
「だって、私だってはやく及川と一緒に気持ちよくなりたいもん」
「あーやめてー! 俺の努力が!」

 私のほっぺたにぐりぐりと頭を押し付けて、及川は悶絶している。さっきまでの余裕がハリボテだったことがわかりなぜだか少し安心した。彼の体がふたたび変わっていくことを腰のあたりで感じながら、私はボクサーパンツを作った人を心の中で褒め讃えた。及川の体が好きだ。タオルケットが捲られる。もう戻れない。戻りたくない。

2016.7.20

- ナノ -