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 愕然と立ちつくす私の横で、折原君は小さく肩を揺らしていた。こみ上げる笑いを堪えきれないといった様子だ。

「いやあなんていうか、わかりやすくていいねえ。君のお母さん」

 他人のことなら笑えるだろう。しかし実娘としては引きつるばかりだ。いくら彼の隣に居心地の良さを感じ始めているとはいえ、枕を並べるには早すぎる。いや早いもなにも、今後だってその予定はないのだが。

「なんか、ほんとごめん」

 うなだれながらそう言うと、折原君は片方の眉毛を下げながら首を傾げた。なかなかに人を煽る表情だが、そんな顔をされても仕方がない状況だと思う。冠婚葬祭で本家に集うたび、親族が袖をとおしていた小紋柄の浴衣を彼が着ていることに今さらながら違和感を感じる。まるで本当にうちの家へ引き込んでしまったようだ。先日までただの同級生だった男が、身内の衣装に包まれて、私の部屋で、布団の傍に立っている。おかしな気持ちになるなというほうが無理である。

「初夜ってやつだね」
「おねがいやめてそういうこというの……」
「お湯、お先にいただいたよ。君も入ってくれば」
「……ひきだしとか見ないでね」

 越してくるときに身辺を一掃したため大したものはないはずだが、それでも自室を他人に明け渡すことには抵抗がある。しかしそれもこれも自分が招いたことであり、折原君に罪はない。できるだけ無心になろうと、頭の中でひたすら枕草子をとなえながら湯に浸かる。一通りの寝支度を終える頃になってようやく、実家に帰ってきたのだという実感がわいてきた。竹編みの脱衣カゴが湿気る匂いは昔から変わらない。手洗い場で鉢合わせた叔母と従姉妹はしきりに折原君の話題をふってきたため、疲れているふりをしてそそくさと引き上げた。まるでとりとめのない展開に、すべては夢の中の出来事なのではと思い始めるが、部屋の扉を開けるとやはりそこには確かな実体をもって折原君が存在していた。布団に寝そべり、リラックスした様子で携帯をいじっている。

「旅館みたいでいいねえ、君んち」
「くつろいでるようで何よりです」

 生乾きの髪をドライヤーで乾かしながら、私は悶々と思考をこらした。視界の端に映っている折原君から緊張の色は伺えない。数々の修羅場をくぐっている彼にとってこんな生ぬるいラブコメ展開など造作もないことなのかもしれない。けれど私にとっては有事だ。カマトトぶるつもりはないけれど、恋人でもない男性と寝床を共にするなどという経験は今までにない。あろうことかぴったりとくっつけられた敷布団の端で、羽布団がふわりと重なり合っている。ぎりぎりまで離して敷き直したいところだが、すでにぎくしゃくと意識してしまっている私にとって、その行動はハードルが高い。

「ね……私やっぱり、客間で寝ようか」
「そんなことしたら変に疑われると思うけど」
「だって、折原君嫌じゃないの?」
「何が? ってあえて聞かせてもらうけど、何が?」

 上目を使いながら、折原君は挑発するように私を見た。うつ伏せていた体を起こし少しだけ背中を丸めている。折原君でも畳の部屋ではあぐらをかくんだな、なんてそんな意外性が今さらきらきらと目に飛び込んでくる。浴衣も畳も敷布団も、何もかも彼のイメージではないし、それ故に新鮮なときめきのようなものが芽生えてしまう。何を隠そう、私だって彼みたいな顔付きには大層弱いのだ。血は争えないと頭を抱えたくなる。

「つ、付き合ってもいない女と一つの部屋で寝るなんて……」
「君に俺を襲うつもりがあるなら多少身構えるけど、もうそんな元気もないだろ? お互い疲れてるし、さっさと寝れば一人も二人もないよ」
「疲れてなくても襲わないけど!」
「それにしては、なんかさっきからギラついてない?」
「……!」

 一人で色気付いていることを見透かされ、顔がますます熱くなる。そんなつもりはないのに、好みの見た目の男性と布団の上で対面しているという事態に私の心臓はばくばくと高鳴った。単純すぎて嫌になる。彼はとたんに蛇のような目付きになり、私の負いめをほじくりかえす。

「しばらく彼氏いなかったんじゃないの? だから親に心配されたわけだろ?」
「……そ、そんなこと」
「べつに君がその気なら、乗ってあげてもいいけど。何をしても君の家族は気にしないだろうし? むしろ既成事実ができたって喜ぶかもね」
「何言ってんの! 実家で! 親戚も大勢来てるのにおかしなことなんてできるわけないでしょ!」
「なに、できない理由ってそれ?」

 しまったと思ったときには誘導尋問にのっていた。いつのまにか回避材料ばかりを探している私は、心の底でこの先の展開を望んでいるのだろうか。彼の言葉を聞いていると自分の真意がどこにあるのかわからなくなってくる。指がまっすぐに伸びてきて、浴衣の袖が肩にかかる。開いた胸襟から見えた折原君の体は想像よりも男の像をしていた。目の前がちかちかとして、まばたきを繰り返しているうちに詰め寄られる。身を退こうとしたところで腰を引かれ、自然と背中が布団についた。状況はあっという間に整ってしまう。実家の敷布団はいつ帰ってきても心地よく整っている。私のために干してくれているのだろう。母の優しさを今さら感じ、不思議なほどわかなかった罪悪感がじわじわと染みだす。けれどこうなってしまえば後の祭りだ。綺麗な色の双眸にとらえられ動くことができない。ゆっくりと近付いて、頬の横でぴたりととまる。

「無料にしてあげようか」

 とどめとしては、充分な一言だった。折原君がこの状況で欲に流されることは考えづらい。つまるところ、簡単に許してしまう私の愚かさを観察して愉しんでいるのだ。彼にとっては趣味と実益を兼ねた戯れでしかないとわかっていても、柔らかく落とされるキスを拒むことができなかった。折原君のような人が、真正面から女に口をつけることを意外に思っている冷静な自分もいた。大した女でもないし、特別な反応を返せるわけでもない。それでも彼は丁寧に丁寧に、私の髪を撫でながらキスをしてきた。遊び慣れているのか、そっちの才能があるのか、手付きはとても心地いい。こんなシーンでもきっちり恋人役を演じきっているのだとしたらそれは異常だ。けれど思えば、彼が異常でないという噂は一つとして聞かない。だからこそこんなバカらしいお願いを聞いてくれたのだ。私に体重をかけないよう、両側についた彼の腕の筋肉が硬く張っているのを見て、どうしようもない気持ちになる。「怖い?」と聞かれ、とめていた息を吸った。

「お、お金はちゃんと払う。体で払えるほどのものじゃないから。けど、いいよ。こんな茶番に付き合ってくれたことには、本当に感謝してるから」
「……」
「その、ふつつかものですが……」
「……そういうパターン? なんか萎えるなあ。まあいいや」
「萎えるって!」
「一度起きて」

 さっきまでの気遣いはどこへやら、折原君は急にぞんざいな口調でそう言うと、起き上がった私の背中に手を入れて下着を外した。呆然としていると、彼はにっこり笑いながら立ち上がり、部屋の電気を消す。

「こちらこそ、至らないところもあるかと思いますが。よろしく」

 なんていう初夜だろう。このまま骨になって田舎の土に還ってしまいたい。





 畳に漂うベーコンエッグの香りに懐かしさを覚えた。座敷のちゃぶ台に置かれた洋食たちに、母親の抜けきらない都会暮らしのなごりを感じる。本家に戻り再出発をきった家族たちには苦労も多かっただろう。私は今まできちんと向き合わず、一人都会で呑気にしていたことを少し心苦しく思った。かといって、帰るつもりはないが。もう少しこまめに連絡くらいしようと思う。

「よく眠れたかしら?」
「ええ。こっちはやっぱり、朝の空気がいいですねえ」

 晴れやかな顔をして隣でパンにバターを塗っているのは、都会の暗部の象徴である折原臨也だ。そんな人をこののどかな朝の中に引っ張り出したのは私なのだから、やはり反省するべきだろう。騙してごめん。きっと次はいい人を連れてくるから。

「名前さんとこうして美味しい朝食をいただけるなんて夢のようです。これからも末長くよろしくお願いします」

 まあ、と色めき立つ母の横で、彼は私に視線を送る。昨夜と同じあくどいものだ。しかし今度は笑う余裕など残されていなかった。かわりに胸や体が少しずつ痛む。寝不足であることがバレないよう、平気なふりをしてコーヒーを胃に流し込んだ。この時、私はわかっていなかった──わけではない。うっすらとだがわかっていた。自ら彼に近づき利用した者が、その後あとくされない真っ当な人生を歩むことなど出来ないということを。

「こちらこそ末長くよろしくお願いね」

 私の代わりに母がそう言って、茶番劇は幕を閉じる。サイフォン式コーヒーメーカーがぷつぷつと音を立てている。次に幕が上がるまでに、体勢を立て直さなければならない。覆いかぶさる彼の姿などは記憶から消して。

2016.7.14

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