サイフォンの原則



 回転椅子に深く掛けながら、彼は自分の爪を見つめている。

「俺、なんでも屋じゃなくて情報屋なんだけどなあ」

 一指一指ていねいにやすりを当てながら、たまにフウと息をかける様は何かしら神聖な儀式のようにも見えるが、ただ単に私の話を斜め聞きするための演出なのかもしれない。小指まで整えたところで、彼はようやく顔を上げた。

「こんなこと、折原君にしか頼めなくて」

 同級生であり古くからの知り合いであるこの男が、なにやらアコギな商売で身を立てていることは知っていた。そこに関わるほど不健全な人生を歩んではこなかったが、それゆえこんな無茶を打ち明けられる相手もいない。情けない声を出す私にむけて、小馬鹿にするようなため息をひとつ吐くと、彼は腹の上で手を組んで「だろうねえ」と言った。

「そんな話、安っぽい恋愛ドラマでだって聞きやしないよ」
「自分でも馬鹿らしいと思うけどさ、意外と、切羽詰まってるんだよ」
「ふうん」
「折原君は口を開かなければ文句なしの好青年だし、嘘も上手だし、機転も利くでしょ? こんなうってつけの人いないよ」
「黙ってればいいの? それとも嘘をつくの?」
「……対応は私が全部練っておく。もし失敗しても文句は言わない。だからお願いします」
「……」
「駄目?」

 両手を合わせ伺い見る。忙しいのは重々承知だが、彼の性格を考えれば、この馬鹿らしいとはいえ稀なシチュエーションを無下にするとは考えづらい。

「駄目とは言ってないよ」

 そう、情報屋の折原臨也は人間が大好きなのだ。頼まれた内容も、そんなことを頼む私自身にも、興味が尽きないというのが本音だろう。そこに付け入る自分は大概厚かましいと思う。

「引き受けてくれるの?」
「いいけど報酬は?」
「……相場は?」
「何度も言うけど、俺は情報屋さんだからね。そんな相場は知らないな」
「よく、人を騙してるって聞くけど」
「それは趣味。もしくは情報収集の副産物的なものだよ。……恋人のふりをして君の親戚一同を騙くらかせだなんて、そんな詐欺師みたいな真似は心が痛むなあ」

 白々しい顔で笑いながら、折原君は爪やすりをくるくると回した。人の口から改めて聞くとしょうもなさや罪悪感が増してつらいところがある。けれど私にとっては死活問題だ。恥を忍んで頼むほかない。
 始まりは一本の電話だった。
 疲れて帰ってきた金曜日の夜、電話口で田舎の母は声を弾ませていた。

『とんでもなくいい話があるんだけど』

 その時点でとんでもなく嫌な予感がしていたけれど、ろくに帰省も連絡もしていないことを後ろ暗く思っていた私は、久しぶりに話す母親をぞんざいに扱うこともできず神妙に相槌をうっていた。

『──そんなわけで、一度顔を合わせてみて欲しいのよ』
「……いや、あの、悪いんだけどお母さん」
『お爺ちゃんの三回忌、帰ってくるんでしょう。その時会うだけ会って考えてみなさいよ。おばあちゃんもお父さんもめでたいめでたいって大喜びしてるし』
「めでたいって何が!? 私まだなんにも言ってないのに!」
『だってお家もいいし、稼ぎもいいし、なによりイケメンよ?』

 話としてはよくあることだと思う。実家に舞い込んだ一件の縁談が両親のツボに嵌り、勝手に盛り上がっているのだ。とりあえずと言いくるめて一族で取り囲み、その日のうちに型をつけてやろうという魂胆だろう。そんな罠にかかった人間を法事のたび何人も見てきた。ようやく仕事も身について、自炊にも慣れたこの頃だ。気楽な都会暮らしを捨てる気は一切ない。しかし、東京では早いと言われる歳でも、田舎の親からしたらまさに適齢期である。みすみす逃す気は向こうにもないだろう。

「君の家って東京じゃなかった?」
「私が大学上がるころ、父の会社が潰れて田舎にもどったの。元はそっち」
「ってことは、結構本気の実家ってことか」
「本気の実家だよ。三世代で本家に住んでる。法事の時は親戚一同集まるから、そこでご本人登場なんてことになったら逃げ場がないよ」

 酒も入るだろう一族総出のお座敷で、若い二人の初対面なんて事態になったらと思うとぞっとする。あまりの悪寒に、つい返した言葉は「付き合ってる人いるから」というありきたりなものだった。

「そこで、なんで俺?」
「だからその、さっきも言ったようにね……うちの母親、スペックを気にする人で」
「スペック」
「はい、あの、正直に言えば顔ですね」

 まったく恥ずかしいことだが、うちの母親はわかりやすいほどの面食いだ。学歴、家柄うんぬんと言っていたがそこはオマケで、おそらくは縁談候補の男性の顔が好みだったのだろう。すでに相手がいる、なんて言ったところで、中途半端な男を紹介しようものなら逆効果だ。けれど折原君ならどうだろう。職業や性格などは設定次第でどうとでもなるし、実際にスペックが高いことは嘘ではない。そしてなにしろこの顔である。私は知っている。端正で涼しげな折原君の顔が、母親の好みど真ん中だということを。

「失礼なこと頼んでるとは思うよ。本当にごめん。誠心誠意、お礼はするつもりです。探偵業の料金相場とか参考にして依頼するから、前向きに検討してもらえると嬉しい」
「……まあ、そんなふっかけるつもりはないよ。難しい仕事でもないみたいだし、興味もあるしね」

 折原君はようやく柔らかい表情をして、組んでいた手のひらをほどいた。デスクに両手を乗せて、指で軽やかにリズムを刻んでいる。整えたばかりの綺麗な爪が、長い指の先に並んでいる。こんなところも好ましいのだろうな、と思った。

「ふつつかものですが、よろしくお願いします」





「思ったよりもいいところだね」 

 予想していたことだが、彼に田舎の景色は似合わない。表情も服装も醸し出す雰囲気も、あぜ道のぼやけた色合いには馴染まず合成写真を見ているようだ。

「ありがとう」

 さまざまな意味を込めて礼を言うと、彼は肩を持ち上げて「たまにはこういうのもいいさ」と言った。私の知っている折原君より幾分優しいこの態度は、すでに恋人モードに入っている故だろうか。自分で言い出したこととはいえ、まさかこの人とともに田舎の土を踏むことになるとは思っていなかったため、心がそわそわとしてしょうがない。

「緊張してきた……」
「べつに本当に挨拶しに行くわけじゃないんだから。それに君からしたらただの実家だろ」
「実家っていっても大学以降あんまり帰ってないし、親戚なんて多すぎて他人みたいなものだよ」

 ため息を吐くと、折原君はまさに他人事といったように笑った。

「大変だねえ。それ、貸して」
「え、いいよ」
「バス停からはすぐなんだろ? どこで見られてるかわからないよ」

 いざその日を迎えてみれば意外と乗り気らしく、折原君は私の荷物を受け取って歩き出す。無駄に青い空の下で、女物のカバンを揺らす情報屋の姿はやはりちぐはぐで面白い。うまい具合に力が抜けて、私はもう一度小さく「ありがとう」と言った。


 家に着いてから一日が終わるまでの、彼の対応はそれはもう素晴らしいものだった。
 折原君を一目見たとたん見合い相手のみの字も出さなくなった母親に呆れながらも、やはり彼に頼んで良かったと胸をなでおろす。これだけ気に入られれば、向こう三、四年は、彼の名前だけで乗り切れるだろう。その頃には私にもいい人がいるかもしれないし、折原君はモテすぎて私の手には負えなかったとでも言えば納得してもらえると思う。実際に「どうしてうちの娘と?」と失礼なニュアンスを含む疑問を数度口にしていた。そのたびにありもしないエピソードをはにかみながら語る折原君の横で、真顔をたもつのは大変なことだった。
「初デートの美術館で同じ絵を好きになった」なんていう白々しすぎるフィクションが飛び出した時には、あまりのおもしろさに思わず席を立った。両親は照れていると思ってくれたようだが、洗面所から戻った際にあくどい顔で目配せをされ、耐えきれず吹き出してしまった。「都会にはない花粉が……」という意味不明の言い訳は、宴もたけなわの騒ぎでなければ通じなかっただろう。

「泊まっていきなさい」

 父親から、伝家の宝刀のような台詞が飛び出したのはそれから一時間後のことだ。
 居間の後片付けも済み、その間父親と適当な話をしていた折原君は、話題の豊富さや謙虚な態度をますます気に入られ、気難しい父親からそんな言葉を引き出すまでになっていた。

「でも、お……臨也君、忙しいから」
「忙しいなら尚更、今から東京戻るなんて疲れるだけよ。うちでしっかり寝て、朝ご飯食べてから帰ればいいじゃない」
「いやいやそんな、初めて来たのに泊まりなんて臨也君もこま、」
「僕は嬉しいですが、いいんですか?」
「もちろんよ! お布団用意するわね。明日の新幹線、何時のとればいいかしら?」
「とんでもない、鈍行でのんびり帰ります。明日は一日空けてあるんです」

 にこやかに了承する折原君に唖然としながら、これは思ったよりも面倒臭いことになっているのではと焦る。「お風呂案内してあげなさい」と廊下に押し出され、彼の耳元へ声を潜めた。

「い、いいの!?」
「べつにいいよ。君だって最悪の展開として想定してたじゃないか、お泊まりコース」
「そりゃそうだけど……ここまでだってたいぶ疲れたでしょ? 明日空いてるなんて言ったら、なかなか帰してくれないかもよ?」
「まあいいよ。田舎の家庭事情を内側から覗けるチャンスなんてなかなか無いし、俺はけっこう楽しいけど」
「……わ、私だって助かってるけどさ」

 感謝と申し訳なさから曖昧に頷くと、彼は猫を被っていた顔つきを普段のものに戻し、けれどどこか砕けた調子で息を吐いた。彼の顔はこんなにかわいらしかっただろうか。

「お風呂、案内してよ」

 面倒臭いのは私の心境だ。自分の家だというのに、彼だけが心の拠りどころであるように感じてしまっている。折原君を身近な存在と思ったことなど一度もないのに、さっきから彼の横は妙に居心地がいい。
 来客用の浴衣を用意して、風呂場の木戸を閉める。複雑な気持ちのまま廊下を戻ると、せっせと敷布団を運んでいる母親と出くわした。

「あれ、客間に敷くんじゃないの?」
「何言ってんの。あんたの部屋でしょ」
「はい?」

 偽装彼氏作戦はここへきて想定外のコースへ突き進もうとしている。


2016.7.9

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