キスをするのに、三ヶ月かかった。高校三年生同士のカップルとしてこれが遅いのか早いのかはわからないが、相手が及川徹ということを考えれば遅いのだと思う。
*
「集中しすぎて、目がいたい」
「俺が来たことにも気づかなかったもんね」
伸びをしながら椅子をひくと、及川はそう言って笑った。場所取り用の座席プレートを持って立ち上がる。及川の部活が終わるまでのあいだ、区立図書館で勉強をして待つことを思いついたのは先週のことだ。今までは部活休みの月曜日に二人でお茶や買い物をするくらいのものだったけれど、こうして少しの時間でも、毎日一緒にいられるというのは大きかった。
「声かけてよ」
「名前、何かがとり憑いたように集中してたからさ。おもしろくて」
口の中で英単語をころがしながら長文読解に取り組んでいたところを見られていたと思うと恥ずかしい。それに集中力の苛烈さに関して、及川にだけはつっこまれたくなかった。試合中に見る彼の張り詰め様はまさに鬼だ。普段ののびやかな無防備さからはとても考えつかない。
「俺帰りの時間ばらつくから、無理に待ってなくていいのに」
「べつに無理じゃないよ。家、弟たちうるさいから図書館の方が能率上がるし」
「ふーん」
「……」
「あ、待ってて欲しくないわけじゃないよ?」
私が無言でプリントをまとめていると、及川は口を尖らせてそう言った。及川とは二年の時からクラスが同じで、お互いに授業中の腑抜けた顔から行事に取り組む必死の形相まで目にしているため、今さらぎすぎすと気を使いあう仲ではない。けれど彼氏彼女の関係になるということは、それなりに相手を思いやる必要があるわけで──私はそのことが二人にとって余計な負担になるくらいなら、別れた方がましだと思っていた。
「及川だって、私に気つかって居残り練切り上げる必要ないよ。図書館寄るの面倒なら、私一人で帰るから」
「……お前さ」
「及川がどうしても気にしちゃうって言うなら家でやるし、なんならべつに無理して付き合い続けることだってないし、遠慮なく言ってもらえれば、」
「いやいや待て、待って。お前、どうしてそんなクールなの? 軍人?」
「べつにクールってわけじゃ……だってお互い気つかいすぎて、いろいろぐだぐだになるの嫌じゃん」
「そりゃそうだけど」
慌てたような呆れたような顔をして目を細めた及川は、重そうなエナメルバッグをぐいと押し上げ、背筋を伸ばした。腰のあたりでマスコットキャラが揺れている。長いことそこにいるのか、ほんのりと黒ずんでいるのが目に付き胸がしめつけられる。隙のない男に見えて、探せば探すだけ隙だらけなのがこの男だ。
「べつにお前に遠慮して練習切り上げることはないよ、悪いけど」
「うん」
「だからお前も帰りたかったら帰って。あ、でもラインは入れてね。心配だから」
「わかった」
座席プレートを受け付けへ返し、返却棚に資料を戻す。閉館間際のしんとした図書館を後にすると、外はすっかり夜の色になっていた。
告白したのは私からだ。バレーに全力を注ぐ及川は、出会い対し常に受け身である。けれど振るのはいつも彼の方からと知っていたので、私はいつ別れを切れ出されてもいいように、双方のダメージが少ないよう少ないようこざかしく立ち回ってしまっている。
「名前、気つかいすぎてって言うけど、俺べつに気つかうの負担じゃないからね? むしろつかわない方が負担」
「……」
「ていうか、せっかく付き合ってるんだから多少無理してでも二人の時間作りたいし。名前はそうじゃないのかもしれないけど」
及川は少し怒っているようだった。自分から好きと言っておいて、逃げ腰な私に苛立っているのかもしれない。気をつかわないで欲しいと望むこと自体が彼の負担だというなら、私にもう為すすべはない。ぐるぐるとこんがらがった頭をほぐすよう、必死で自分の本音を探していた。
「私だって及川と二人っきりでこうやって話すの、好きだよ。けど及川、今まで付き合ってた子とすぐ別れること多かったし、もし私も無理させてるんなら……イヤだから」
イヤだからなんて、どうしてこんなに可愛くない言い方しかできないんだろう。
本当は別れたいなんて一欠片も思っていない。けれど及川に彼女なんてものは必要ないんじゃないかとか、いない方がいいんじゃないかなんてことは、常に考えている。器用でもないわりに優しい彼は、私に時間をかけられない分、いつも私のことを考えてくれている。それってすごく、疲れることなんじゃないだろうか。及川を好きな気持ちと、及川に対する後ろめたさはいつも表裏一体だ。本音を頭の奥から引っ張り出したせいで、おでこのあたりがじんわりと熱く火照っていた。
「名前」
「うん」
「……クールとか言ってごめん」
泣きそうなのがばれるのが嫌で前を向いていたのに、及川が足をとめたため思わず振り返ってしまった。電灯の明かりがまるく滲んでいる。私の指が目じりをこするより前に、かがみこんできた及川の唇が小さく口へ触れた。そういえば付き合ったらキスとかするんだな、なんて今さら実感しながら彼を見上げると、いつもと少し違う顔をした及川が笑うでも怒るでもなくこちらを見ていた。表情の絶えない彼のふとした真顔が、なにより綺麗だと思って私は授業中、彼ばかりを見るようになったのだ。
「悪いけど、背伸びして」
「……こう?」
「ん」
背伸びなんてあまりしない私は踵を上げた途端よろめいて、思わず及川の胸に手をついた。待ってましたとばかりに腰へ回った腕に支えられ、胸が密着して恥ずかしい、なんて思う間もなくぴったりと唇が重なった。さっきよりもずっと長いキスに、どこでどう息をすればいいかわからずにじっと堪える。顎を支えていた指が耳をつたい髪を撫で、肩の力が抜けたところで彼が角度を変えようとしたので、もう無理だ、と思いずるずると踵をつけた。
「及川、慣れてる」
「そういうこと言う?」
「だって、なんか、すごい気持ちよかったもん」
「……そういうこと言う?」
打って変わって「信じられない」と顔を歪めた及川におののいて引き下がろうとしたところを、逃がすまいと引き寄せられ、ぎゅうぎゅう抱きすくめられる。彼の体は私の肩を抱きしめるには少し大きすぎるようだ。もてあました隙間を埋めるよう締めつけられ、肺のあたりが圧迫された。くっついていて恥ずかしいなんていうレベルじゃやはりない。
「いたいよ!」
「うるさいうるさい」
「胸がくるしい」
「俺だってくるしい。痛くてこそば痒い」
「虫刺されみたいに言わないでよ」
夜の田舎道を通るのは、遠方へ向かう車くらいだ。人が来るまでこうしていたら夜が明けてしまうかもしれない。離れるきっかけが作れずに、私たちは喧嘩をしながらいつまでも身を寄せあっていた。彼には私が、私には彼が必要なのだと、心と体が覚えてくれるまでずっと。