きっとずっと幸せで
※原作最終巻後の話(いざやけネタバレあり)



 足が痛むのだと言っていた。

「そこのスプーンをとってくれるかい」

 田舎町に斜陽がさし始めた頃合い、逢魔が時のざわめきに紛れどこからかやってきたこの男は、もう随分町の空気に馴染んでいるようだった。なにを本職にしているのかは知らないが、子どもを連れているところをよく見た。実の子というには大きく、弟妹というには幼い年頃の子どもだ。

「あ、失礼しました」
「落としちゃってね」

 テーブルの脚の先を指差して、彼は困ったように眉を下げた。食器置きの乗ったカウンターは、彼には少し高すぎる。皿を拭く手を止めてスプーンを一つ手渡すと、折原さんは「ありがとう」と笑いくるくると紅茶を混ぜた。普段はミルクを入れないはずだが、今日は気分が違うようだ。

「相変わらず綺麗にしてるね」
「こんなでも、飲食店ですから」

 築年数はだいぶ経つし、流行りの内装でもない。公共事業の関係でとうとう引導を渡されたのが三ヶ月前。営業できるのもあと僅かだが、せめて最後まできちんと手入れをしてやりたかった。

「俺は好きだよ。食器から壁飾りの一つまで、店主の息遣いを感じる。そりゃ些か古いセンスかもしれないけど、海外仕込みのチェーン店なんかよりよっぽど好ましいよ」

 初めは冷たい印象を受けた彼だけれど、話せば話すほど腹の底におかしな情を溜めこんでいるのが垣間見える。情といっても、温かで穏やかなものとは違う。隣に建つマンスリーマンションで彼が何をしているのかは知らないが、堅気の人間でないことくらいはわかった。そのわりに呑気な顔をしてこんな辺鄙な喫茶店に暇をつぶしに来るのだから、どう対応したものか迷う。最も、この車椅子じゃそう遠出もできないだろうし、他に選択肢がないのだろうが。

「お口に合ってればいいんですが。折原さん、若いのにずいぶん羽振りがいいって聞きます」
「若いったって、君よりはずっと上だと思うけど」
「本当に?」
「二十歳だろ? まだ子どもじゃないか」

 どうして私の歳を知っているのかは置いといたとしても、彼にしたってせいぜい二十代の前半に見える。しかし確かに、彼の持つ底なしの含蓄は経験からくるものとしか考えられない。姿形と内面が噛み合わず、だまし絵を見ているようなちぐはぐさに酔っていしまいそうだ。

「子どもではないですよ。こうして働いてるし」
「ああ、ここ来月までなんだって?」
「はい。道幅を広げるそうです。地方都市の苦肉の策だっていうけど、こんなところに道なんて引いてどうするんでしょう」
「いろんな利権が絡んでるのさ」

 折原さんは言いながら脚を組んで、少しだけ眉を歪めた。車椅子の人間が脚を組めるものだろうか。疑問に思いながら、夏向きのレース編みのコースターを箱へしまう。少しずつ撤収作業をしていかなくてはいけない。視線を上げると、並んだジャム瓶越しに折原さんの横顔が見えた。カップに口をつけた彼の、首筋の角度が綺麗だと思った。やはり、どこかが不自由なようには見えない。

「うん、おいしい」

 年齢不詳の彼の体が少年のように細くしなやかなのは、彼の心が子どものままだからだろうか。ほがらかにはずむ声は、彼を囲む小学生たちとそう変わらなく思える。成長を拒む、というよりは、成長することを放棄しているようだ。必要性を感じていないのかもしれない。なぜだかは、わからないけれど。
 紅茶が残り一口になったところを見計らい、カウンターを出る。

「けど、店じまいの支度はもう少し待ったほうが良い」
「え?」
「ぽしゃると思うよ。県道の話」

 ふいに聞かされた言葉があまりにも予想外で、私は思わずおかわりの入ったティーポットを手から滑り落としてしまった。熱々の紅茶が降りかかる、と身構えた体を、強い力で引かれよろめく。私の腕を掴んだ折原さんが、テーブルに手をついて二人分の体重を支えていた。

「す、みません!」
「危ない危ない」

 洗剤か整髪料か、ふわりと他人の匂いがして、思いのほか密着してしまっていることに顔が熱くなる。ゆっくりと息を吐いて車椅子へ戻った折原さんは、最後に私の腕を手放して「割れちゃったね、いいポットだったのに」と言った。彼の手のひらの感触は、遠目の印象とは違い年相応の男性のそれだ。なぜ、彼がこの町の公共事業計画について詳しいのか。一体彼はいくつで、なにをしている人間なのか。深く考えずにいた疑問が羞恥とともにあふれだして、じんわりと汗になる。

「いてて、さすがに鈍ってるよ。一応、鍛えてはいるんだけどね」
「ありがとうございます。……リハビリ中、なんですか」
「その手前かな。今はまだそんな気にならなくてね。しかし治す気が起きないとはいえ、いざその時になって衰えすぎてるんじゃ困るから」

 ポットの欠片を拾いながら彼を見上げる。おかしな顔をしてしまっていたのか、折原さんは目を細め、小さく笑んだ。

「痛むだけで、動かないわけじゃない」
「……」
「あ、疑ってるね? そんなことあるのかって。……あるんだよ。この世には君の知らないような事柄がたくさんある」
「……そうだと思います。田舎町の小さな喫茶店じゃ、知りえないこともたくさんあるんでしょうね。けど、」

 ビニール袋にまとめた残骸をカウンターの裏へはけ、一息。細かい傷がいくつもついた木の床を見ながら、今までのことを思い返した。

「もう終わりです。父も頃合いだって。県道を通す話がなくたって、近いうちたたむつもりだったんです」
「それは残念だ。それで君は、どうするの?」
「東京にでも出てみましょうかねえ」
「……お勧めするよ。埼玉手前の、西武線沿線あたりなんて家賃も安くていいんじゃないかな」
「ああ、池袋の方ですか」

 詳しくもない知識で尋ねると、彼は両手の指を腹の上で組み、深く頷いた。

「あの辺には少しばかり土地勘があるんだ。なにか困ったことがあったら連絡してよ」
「そうなんですか。じゃあもし機会があれば」
「とは言っても、俺は帰れないと思うけどね。相談ならいつでも」

「帰れない」と言った彼は、初めて見るどこか寂しげな、それでいて慈しむような愛情深い顔をしていた。
 この世には私の知らないことが溢れているそうだ。その全てを知っているという顔で折原さんは紅茶を飲んでいる。私はなぜだか、彼のことをかわいそうに思った。この町を出て、次はどこへ行くのだろう。すべての町を知り過ぎたとき、彼に帰る場所はあるのだろうか。

2016.4.29
title: ホームシッカー

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