ありふれた生活



 健全と、不健全の話だ。

 年上に見られることはそんなにない。ただ落ち着いてるね、と言われることは多い。黙っているだけでさすが赤葦、と言われたりもするから得な見た目をしているのだと思う。実際のところ、頭の中はその辺の男子高校生の平均並みだと自分では思う。行動を共にすることが多い部活の先輩が、平均をいろいろな方向に振り切れているため相対的に良識派に見えるというのはまあ、ある。というか、あの人のそばにいたら誰だってしっかりしなければと思うだろう。
 そんな俺にだってもちろんふざけんなチクショウと思う瞬間はあるわけで、例えば部活帰り、くたくたに疲れているというのにおかしなキャッチセールスにつかまった時だとか、試合前日だというのに携帯のアラーム機能が壊れた時だとか、ただ単に腹が空いて空いてたまらない時だとか、とにかくそんなしょうもない理由でうんざりしたりもする。
 けれど、気はやっぱり長いほうなのだと思う。人の面倒をみるのも嫌いじゃない。目的のためならほとんどの手段を受け入れられるし、楽しめもする。バレーの話だ。俺はバレーに関してとことん健全だった。今のところ俺の生活の八割はバレーである。残りの二割は衣食であり、住であり、そして──。

「どうしたらこんな状態になるんですか、名字先輩」

 ため息をついた俺に、バツの悪そうな顔で眉を下げた彼女は俺より一つ年上のはずだ。しかし一年早く生まれたからといってその分の包容力が保証される訳ではないということは、日頃から身をもって知っている。先輩は足元に散らばった文化祭要項プリントと、大量のホッチキスの芯を眺めながら呆然としていた。先ほど実行委員会全員でページごとに揃え重ね、整えたものだ。あとは留めるだけ、というところで昼休み終了のチャイムが鳴ったため、作業は放課後へ持ち越すこととなった。俺は部活で行けないため、せめて備品だけでも揃えておこうと教材室から中綴じ用のホッチキスを借りて戻ってきたところ、広がっていたのは見るも無残な光景だった。せっかく組んだプリントは崩ればらけ、廊下中に散らばっている。

「誰かが崩すといけないから、教材室に運んどこうと思ったんだけど」
「……」
「私が崩しました……」

 そうですね、と言いそうになったけれど、悪気のない人間に対しそこまでハッキリ言うのもどうだろうと思いさし控える。かといって無言でいるのも可哀想だったので、迷った末「次の授業なんですか」と聞いてみた。

「物理、だったと思う」
「え、先輩理系なんですか」
「一応ね。事務能力低いから、OLとか絶対できないし」
「……ああ」

 なんとなく納得し時計を見た。授業まであと五分。俺の午後の授業はたしか現文だ。そんなに成績は悪くないから一時間くらいふけても平気だと思う。なによりこのまま立ち去るのは気が引けた。

「俺は左端からやりますから、先輩はそっちからお願いします」
「うん……ごめんね」
「まあ、一からってわけじゃないし」
「優しいね赤葦くん」
「そうでもないですよ。厳しいです」

 俺の言葉にやんわりと笑いながらも、羞恥や申しわけなさから涙目になっている彼女を見てなんともいえず胸がざわついた。バレーに関しては根っから健全である俺だけれど、バレーを差し引いた二割の部分が健全であると、胸を張って言える自信がない。容姿や性格が生まれつきある程度決まっているように、好みや性癖だって簡単に変えられるものではない。そんな不穏なことを思いながら、散ったプリントを拾い上げていく。崩れてはいるが混ざってはいないため、組み直すのは思ったよりも手間じゃなかった。

 黙々と手を動かしながら、彼女と初めて会った時のことを思い返す。むりやり任された球技大会の打ち合わせで、俺の前の席に座った彼女は長い髪をふわりとゆらし「あ、木兎くんの」と笑ったのだ。彼女が俺にどういう印象をもったかは知らないが、並みの男子高校生である俺は実行委員も悪くないものだと思った。彼女は不思議な人だった。お姉さんっぽいようで妹のような親しみもあり、気が優しいかと思わせておいて妙に強気な発言をしたりする。しかし、ころころと変わる彼女の中心部には決して揺らぐことのないある要素が存在していて、俺はそこにたまらないものを感じていた。

「意外と早く終わりそうだね」
「そうですね。途中から授業行くのだるいから、そうしたらサボりましょうか」
「赤葦くんぽくない! どうしたの?」
「いや、俺わりとそんな感じですけど」

 彼女は眉をひそめたけれど、口元はいたずらに笑んでいた。そんな表情は目に毒だ。大してしっかりもしていない癖にまたお姉さんぶって俺をいなそうとしている。喉が乾くような心地がして、ゆっくりと息を吐いた。

「名字さんはサボったりしなそうですね」
「私もたまにサボりたくなる時あるよ。ていうか、さん付けじゃなくて、先輩って言って」
「……部活これなんで、先輩って言い慣れてなくて」
「なんか、さん付けだとドキドキしちゃうよ」
「そうですか? じゃあ気をつけます。先輩の彼氏に怒られるのは嫌だから」
「……あ、わ、別れたんだ。彼氏とは」
「知ってます」

 ハッキリとそう言った俺に驚いたのか、彼女は悔し紛れに「これだから、赤葦くんは」と呟いた。むらっと腹が立ち、つい手が伸びてしまう。床についていた彼女の手に自分の手を重ね、押しとどめる。

「俺だから何ですか」

 俺らしからぬ行動と思ったのか、彼女は顔を赤くして抗議の目を向けてきた。それがもうダメだった。特殊な性癖を持っている自覚はないが無性に女を虐めたくなる時がある。重ねた手に力を入れながら顔を近付けると、彼女は面白いくらい「そういう」顔をした。彼女にしても、かなりそっちの気があるのだと思った。ずっと俺が目をつけていた部分だ。おそらく無自覚なのだろうが、滲んだ瞳でこちらを見て、あかあしくん、と名前を呼ぶ。あまりのいじましさに少し困ってしまったが、開き直り彼女の手を引いた。

「ちょっと来てください」

 あくまで冷静に、と思いつつも気がはやってしょうがない。教室の中に連れ込んで、あえてドアは閉めずに彼女と向き合った。か細い動作で俺を見上げ、彼女は湿った息を吐く。腰のあたりに手をやれば、操られるようにへたりと寄りそってきたため確信した。この人にはやはりマゾ的な素質がある。

「先輩、けっこうだらしないですね」
「……だらしないって、なによ」

 年上とは今までにも何度か縁があった。そのおかげか無駄な経験値を積んでしまっている。今さら一つ上の頼りない女に怯むことはないが、思った以上に昂ぶっている自分のテンションに引いていた。俺はこれから、何をするつもりだろう。

「別れたばっかなのに流されるんですか」
「だって、あかあしくんが」
「だってなんて言って、俺のせいにするのは狡いですよ」

 狡いのはどっちだと思ったけれど、彼女がだだをこねるように俺のネクタイを握ったため、ついムキになってしまった。屈みこんで唇を合わせる。ぼんやりと開いていた口に舌を入れることはできたけれど、そうはせず食むだけにとどめる。それがもどかしかったのか、彼女は舌をさまよわせ、最後には自分から俺の唇を舐めた。なだめるように髪を撫でる。真っ赤に色づいた彼女の目尻にぞくりと背筋が震えた。ドアは開いている。誰かが通れば見えてしまう。

「……こんな人だなんて、おもわなかった」
「すみません。謝ったほうがいいですか」
「謝らなくていい」
「どうしますか。付き合うつもりですか、俺と」

 否定するにせよ肯定するにせよ、彼女は後ろ暗い気持ちになるだろう。濡れた唇のまま何度か息を吸って、吐いて、彼女は小さく首を振った。

「付きあわないよ」
「駄目です。遊ばれてやるつもりありませんから」

 遊んでるのはそっちでしょう、とでも言いたげに、彼女はまた眉を寄せた。たまった涙がほろりと零れる。ひどいことをしているのかもしれないと思うが、俺の心はいつになく満たされていた。不健全だろうか。

「しっかり責任とってください。年上でしょうが」
「なにそれ……ほんとに厳しいね、あかあしくん」
「先輩を甘やかすのなんて部活だけで充分なんですよ」

 実際のところ、かの大エースを甘やかしているかと聞かれればそんなことはない。けれどなぜだかそんな言い方をしてしまった。彼女は俺を見上げたまま小さく笑い「手に負えない」と言った。自分のことだろうか。それとも俺だろうか。俺には今のところ、どっちも手に負えていない。欲に振り回される俺にどうかあんたも振り回されてくれ。

2016.02.04

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