「名字さん」
ジェノスさんはそう言ってじっと私を見た。
「はいなんでしょう」
「飲み会の次の日に、また飯に誘うというのは合コンの不文律なのか?」
「いえ……それはジェノスさんがモテてるだけだと思います」
複雑にして精密な指関節に挟まれているスマホには、複数の未読メッセージが連なっている。冒頭だけでもわかる個人的なデートのお誘いが三、四、五件。せめて既読にしてあげたらどうだろう、と思うけれど彼の無機質な瞳は私の言葉を聞いてなお変化が見られない。頷くでもなく電源を切った彼は、溜息をついて目線を上げた。その先には青々とした葉野菜が並んでいる。
「買い物に付き合わせて悪いな」
「いえ。ここのスーパー安いから私もよく来るんです」
ほうれん草の付け根をたしかめているジェノスさんは大分家事をしなれている様子だ。弟子というくらいだから師匠の生活の世話をするのも修行の一環なのかもしれない。鉄分は頭皮にいいだろうか、とぼそりと呟いた彼が先生の発毛を諦めていないことは明らかだった。今日私を呼んだ理由だって結局のところそういうことなのだろう。
「鉄分は血行促進につながると思いますよ」
「他に何かあるか。食生活から見直せるなら、押し付けがましくもなく先生の力になれる」
「そうですね、髪に良いと言っても髪だけに作用する特効薬のような食べ物はないので……アミノ酸やタンパク質をしっかりとって体内のコンディションをよくすることが大切だと思いますよ。卵や豆類、乳製品なんかは必須ですね」
「ふむ、なるほど」
相変わらず真っすぐにひたむきに師を慕う彼を見て、私はなんだか急に羨ましくなってしまった。これほどまで傾倒できる何かが私にはあるだろうか。その先の目的も含めて、彼の生きる姿勢は漠然と日々を食いつぶす私とは対極にあった。毛を生やす仕事にしたって、彼のように大切な誰かを喜ばせたい一心からではない。安定した生活がほしくて勉強をして大手企業へ勤め、目的の生活を手に入れたというのに結局は刺激が欲しいと無い物ねだりばかりしている。
「サイタマ先生は、素敵な人なんでしょうね」
「……なんでそう思う?」
すぐさま肯定すると思った彼は、思いのほか驚いた様子で私を見ていた。いぶかしむ、というよりも警戒している、といったほうが近いくらいの表情だ。
「え……いや、すみませんよく知りもしないのに。真面目なジェノスさんがそこまで慕うくらいだから」
「俺が慕うから凄いんじゃない。先生が凄いから慕ってるんだ」
「そうですね。ヒーローのことはあまりよく知らないけれど、危険をおかして強い者と対峙するんだからそれだけで凄いです」
「多くの人間はランクで全てを判断しようとするがな。人から与えられる数字なんて、先生ほどの人には何の意味もないというのに」
そう言った彼の眉は険しく寄せられている。軽蔑と無関心と、少しの憤りが交じったような顔だ。私はサイタマ先生の凄さというものをわからないなりに思い描いてみる。
「私のお父さん親バカで、いつも私のためなら凄く頑張ってくれるんです」
「……?」
「小学生だった私がおかしな人に車に連れ込まれそうになったとき、サイドミラーにしがみついて五十メートルも走路妨害したんですよ。けどお父さんにはランキングなんてついてないし、それどころかヒーローですらありません。でも私はお父さんの凄さを誰よりも知っている。つまり、そういうことですか?」
「…………いや、そういうことじゃ、」
ジェノスさんは困ったような顔で否定をしかけ、けれど途中で言葉を止めた。そして少しだけ眉間のこわばりをほぐす。
「そうだな。少し近いのかもしれない」
いつになく優しげな声だと思った。「プロであるかは大した問題じゃない」と言った彼の言葉を思い出し、私もなんだか温かい気持ちになる。
「俺の父さんもいい人間だった」
その過去形の意味を聞けないまま、特売品のコーナーを通り過ぎる。カゴを持つ彼の腕は硬く冷たいけれど、温かかった頃だってあるのだ。それはどれくらい前のことだろう。彼のことを知りたいと思ったけれど、まだ聞くには早すぎる。いつか聞ければいいし、その頃には本当の友達になれているといい。「サイタマ先生、里芋好きですか?」そう聞いて袋を手渡すと、彼は顎に指を添えしばらくの間考えてからカゴに入れた。どうやら今夜は鍋になりそうだ。
*
「先生、今日は石狩鍋です」
「おー、うまそうだな」
味噌をベースにしただし汁には鮭の他に鶏肉や春菊、里芋、白滝などの具材が煮えていて、真ん中には溶けかけのバターが浮いていた。栄養満点だしスタミナもつきそうだが、それにしたって凄い量である。
「すみません、私までお邪魔しちゃって」
「いーよいーよ。買い出し付き合ってくれたんだろ」
「はい、でも料理したのほとんどジェノスさんです」
「こいつ器用なんだよ」
サイタマ先生は自分の息子を褒めるようにそう言って、屈託なく箸を持ち上げる。その様子をジェノスさんが満足気に見つめていた。どちらが保護者でどちらが面倒を見ているのか判断のつかない不思議な師弟は、彼らなりのバランスで成り立っているようだった。ジェノスさんが消耗品のストック棚から出してきてくれたお弁当用の割り箸をわって、私もよく煮えた具材をいただく。なんとも絶妙な塩加減とまろやかさに、彼に味覚があることを確信した。この高密度なマシンを食物エネルギーで動かしているのだとしたらこの量も頷ける。
「今日はなんかあったか? ジェノス」
「いえ、至って平和でした」
「そーか。まあアレだな、たまにおかしな怪人が暴れたりもするけど、最近はここらも落ちついてきたからな」
二人の会話にヒーローらしさを感じおお、と一人感心する。けれどいくら強い彼らといえど、いつだか新聞で見たえぐれたマンションのような事態がたびたび起こるこの場所で、呑気に鍋なんて食べていていいのだろうかと不安になった。
「Z市のこのエリアってすごく物騒だって聞いたんですが……お二人は大丈夫なんですか?」
「愚問だな。そこらの怪人が先生の脅威になるわけないだろう」
「あんまり持ち上げられると俺がアホみたいだからやめて」
彼らには全くおどおどとしたところがない。死人もざらではない怪人騒動を日々見聞きしている私からすると、この落ち着きは謎だ。人は強くなると神経が図太くなるのだろうか。彼の頭はストレス性のものではなさそうだ。ていねいに灰汁を掬っていくサイボーグ青年のよどみない動きを見ながら、私はいつかの父親の勇姿を思い出していた。
2016.1.1