卒業おめでとう
見慣れた黒板には大きくそう書かれ、ふだん漢文や連立方程式が並んでいる四角の中は所せましと色チョークのデコレーションが踊っていた。
装飾過多で落ち着きのないそれらは私たちの学校生活そのもののようだ。廊下からの隙間風こたえる右列最後尾の席で、私は得意の頬杖をついてざわつく教室を眺めている。このポーズで安らかに眠ることに関して、私の右に出る者は学園広しとそういないだろう。おそらく。
前の席の椅子の背に描かれたヘタクソな落書きをぼんやり見つめながら、いつの間にか夢を見ているのが午後の私の主な授業スタイルだった。クラスに好きな人でもいればもう少し気も引き締まったのだろうけれど、私には特に思い当たる異性もいないので緩み放題だ。
まあ気になると言えば一人、いつも一時間目が始まった後くらいに眠そうな足取りで廊下を歩いていく隣のクラスの男子生徒くらいである。
彼、高杉くんはいつも授業中にうちのクラスの横を通り過ぎ、また多くの場合チャイムの鳴る前に引き返してきて階下へと消える。なんだかよく解らないけれど、協調性がなく他の人と違うタイミングで校内をウロウロしてる人物だった。
目付きも悪いしシャツもやたら赤いので不良なのかとも思ったけれど、彼のクラスの元中の子に聞いたところ「特別気性が荒いかと聞かれればそうでもない。ただ目付きは悪い。あとシャツがやたら赤い」と、得られる情報は少なかった。謎である。
そういえば一度、移動教室で渡り廊下を歩いている時、グラウンドではしゃぐ高杉くんの姿を見かけたことがある。彼は学校指定のジャージの下にやはり赤いTシャツを着込みながら、同じクラスの桂くんたちと高跳び用マットの上で取っ組み合っていた。
私はなんとなく高杉くんは体育なんてサボるタイプなんじゃないかと思ってたのでかなり意外で、加えて無邪気(でやや凶悪)な笑顔も初めて見たものだから、なんだかドキドキしたのを覚えている。
やたら赤い高杉くんの横で髪をしばっている桂くんはやたらロン毛で、他の二人はやたらモジャモジャだった。彼の周りは変な人が多い。
そんなことを思い出しながら、頬杖による条件反射でウトウトと瞳を閉じれば、瞼の裏にいくつもの彼が浮かんだ。少し猫背の歩き姿、後ろ姿のウォレットチェーン、迷わず押す自販機のボタン、左に流れた前髪、友達に小突かれ蹴り返す足癖の悪い上履き。
高杉くんはあんなに目付きが悪いというのに、彼にまつわる思い出は柔らかく鮮やかだ。まるでそこにある色チョークのように。
「よし、そろそろ体育館に移動するぞー」
いつの間にか教壇に立っていた担任の声にふわふわしたビジョンは掻き消され、しかしその拍子にある一つの考えが浮かんだ。
私は高杉くんのことが、好きなのかもしれない。
立ち上がり教室の前に進みながら、歩くたびその想いは強くなった。
なんだ、私好きな人いたんだ。
もっとそれらしいことをすれば良かったと少し後悔したが、まあ自分らしいかな、とも思った。
鈍感すぎる私は数あるイベントを逃しに逃し、気付けばもう最後の一つだ。
もし今日、この日でさえ彼がいつもの調子だったら。
式の後に声をかけてみようと思う。
「赤、好きなの?」と。怒られるかもしれないけど。
黒板のチョークは地の濃緑と混ざりあい淡く粉をふいている。
きっとこれから放り出されるだろう白と黒の世知辛い世界を前にして、私は少し哀しくなり黒板を指でなぞった。
赤線はいつもピンクでした。
2012.2.28
卒業企画『3月9日』提出 #2