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 落ちてくるえりあしが気になって、髪を上げた。いつも持っている黒いアメピンが今日はポケットのどこにも入っておらず、腕に付けっぱなしにしていた髪ゴムで横髪をひとまとめにする。教科書に連なる英文は若い男女の出会いを鮮やかに描いていた。He’s more myself than I am. 彼は私以上に、私なんです。自分の何かを相手に映して、そこに希望を見出すのはおかしなことだろうか。緑色のマーカーが、今日はなんだか目に眩しい。


 午後の授業が終わり、机を寄せる雪崩のような音が校内にこだましていた。金具のゆるくなった箒をロッカーから取りだしてカチャカチャと鳴らす。座席順のグループで回す掃除当番は、みな代わったりサボったりとなんとも適当で、毎日のことのためそう埃がたまっているわけでもなく、形だけのだらけたものだ。

「赤葦くん、ちりとり持っててもらってもいい」
「ああ、はいはい」

 部活がある人は大抵早々に引き上げてしまうのに、律儀な彼はいつもきっちり十分間とどまってくれる。だからといってそう積極的に手を動かすわけでもないのは男子らしいが、机を戻す作業は女子だけでは骨が折れるため助かっている。そんなこともあって、クラス女子内での赤葦くんの評判は上々だ。「キリッとしていてストイックっぽい」容姿も手伝って、彼と話すことに喜びを感じる人は少なくないようだった。たしかに彼のように落ち着いた、それでいて運動神経がよく背も高いクラスメイトを、あわよくば自分の彼氏にと願うのは自然なことかもしれない。

「それ、かわいいね」

 不意に聞こえた彼の声があまりに日常的だったため、私ははじめ「それ」が何で「かわいい」がどういう意味なのかうまく理解することができなかった。

「え?」
「頭」

 指をさすでもなく、赤葦くんは私の顔をじっと見上げている。ちりとりの枝を持って膝をついている赤葦くんの、普段見えないつむじこそなんだかかわいいと思った。とっさに頭に手をやると、友だちが遊びで付けてくれたシフォンのシュシュが指先に触れる。

「あ……ありがとう。ピン忘れちゃって、ハーフアップに」
「ハーフアップって言うんだ、それ」
「うん」
「はじめて知った」

 彼が何かに向けてかわいいと言うなんて、そしてその対象が自分だなんて、考えれば考えるほど驚きの事態だ。私は赤らんでいるだろう頬から視線を逸らせようと一生懸命ほうきを動かして、わずかな埃をゴムパッキンの上へ乗せていく。適当なところで立ち上がった赤葦くんが、カンカンとゴミ箱にちりとりを打ち付けて、振り向いた。目を合わせられなかった私は慌てて机を並べ直す作業に没頭する。グループの女の子が楽しそうに彼に話しかけているのが聞こえる。返事をする赤葦くんの声もほがらかに笑っていた。彼はきっと何の意識もせずにああいったことを言っているのだ。由々しきことだ。

「かわいいとか、やたら言っちゃダメだよ」

 部活に向かう彼の隣で、ゴミ箱を抱えながら呟いた。

「名字さんも言ったよね」
「え?」
「かっこいいって」

 それはいつのことだろうと考えて、思いつくのは少し前、自習室で彼と話した時のことだった。

「それはだって……試合見たら、そう思ったから」
「俺も名字さんの頭見てそう思った。嫌ならもう言わないけど」

 赤葦くんは横目で私を見ながら臆面もなくそう言い、じゃあ、と手を上げる。バレーシューズやジャージが入っているのだろう大きなエナメルバッグが背中で揺れている。スポーツを見てかっこいいと言うのと、女の子の髪型をかわいいと言うのではちょっとニュアンスが違うんじゃないかなと思ったけれど、彼のそのズレが天然なのか意図的なものなのかわからないため反応に困った。彼の表情や口調にはあまりに他意がないのだ。自惚れていいものか、迷う。




 知らずともれていた鼻歌に、エヘンと咳払いをして頬をこする。
 現金な私のコンディションは近頃すこぶる良く、調子にのるまいと自制をしているつもりが、どうやらすっかり自惚れモードに入ってしまっているようだった。いろいろなことに少しずつたまっていた不満やストレスが、慢性的な自信のなさが、彼のストレートな言葉によって解消されていっているのだろうか。依存しすぎるのはよくないと思いつつ、彼の言葉を安定剤のように繰り返し思い出している自分がいる。空白の時間に後ろ向きなことを考えなくてすむというのはとても精神衛生に良いものだ。が、代わりに少し息苦しいほどのときめきを感じる。それを忘れようと、必死に勉強に取り組んだ。なんだかわけのわからないサイクルだが、あれから少しずつ自己採点の点数が上がってきているのだから結果オーライである。弾みをつけるように参考書の角をドンと揃え、立ち上がる。以前のように悶々と時間を無駄にすることなく、この時間まで集中力がもつことは私にとって快挙だった。

「わ、もう帰るの?」

 パチンと電気を消した途端教室に入ってきた赤葦くんが、驚いたように声をあげた。私は彼よりもっとびっくりして、慌ててスイッチを押し直す。上下ジャージ姿の赤葦くんが重たそうなエナメルを携えそこに立っている光景は、なんだか鮮烈なデジャヴのようで、目がちかちかとした。

「わ、忘れ物?」
「いや、いるかなと、思って」

 困ったように首元に手をやって、彼は少し黙る。戸惑いを見せる赤葦くんの表情が珍しくて、つい、いつも彼がするようにじっと覗き込んでしまった。

「名字さん」
「……はい」
「こういうの、嫌なら言って。……あまり遠慮するのとか得意じゃないから」
「こういうの、って? 二人で話したり?」
「そう、話したり」

 教室の床に目をやっていた彼が、ふいに視線を上げる。じっと見つめていたのは私のはずなのに、あっという間にその瞳にとらわれて、形勢が傾く。黒く深い瞳孔に吸い込まれまいと足の裏に力を入れた。彼の足が一歩近づき、手のひらが伸びる。あの日からハーフアップにすることが多くなっていた後ろ頭に指が触れた。ふわりと、石けんの香りが届く。

「いやじゃ、ないよ」

 私はなんとかそれだけ言って首を振った。他人のペースを侵害しない人なのだと思っていた。配慮深く、我慢強く、大人で落ちついた人間なのだと勝手に思っていたけれど、思えば彼だって私と同い年の高校生だ。その上、どうやら人一倍率直らしい彼の言動は、時にまっすぐな刃物となって私の心へ入ってくる。まるで心臓を切り開かれているようだ。熱いものが胸のあたりにぐずぐずと漏れだして溜まっていた。そしてそれは疑いようもなく致命傷なのだ。

「……でも私、赤葦くんの言葉に、ちゃんと応えられるかわからないから」
「あまり、気にしないで。ただ、俺からこうやって名字さんに関わることを許してほしい」

 なんだか洒落た英文訳のような日本語をもらした彼は、自分でもキザだと思ったのか、目を細めぎゅっと口を引き結んだ。今日は彼のいろいろな表情が見られる。

「……なんか違うな。ごめんねまどろっこしくて。好きなんだと思う。名字さんのこと」

 観念したように言って、こちらに伸ばしていた手を引っ込め、赤葦くんはいよいよ大きな溜息をついた。

「……ごめん。さすがにすっ飛ばし過ぎてるから、出直してくる」

 そう言って教室を出ていった彼の顔が、赤らんでいるように見えたのは気のせいだろうか。人のことなんて言えないほど顔を発火させているくせに、私はその貴重なワンシーンを忘れることができず頭の中で反芻していた。貴重? 意外? 珍しい? けれどそもそも私が彼の何を知っていると言うのだろう。これから知るんじゃないか、彼の普通も、彼の特別も、その特別の貴重さも。そのために今、足を踏み出さずしてどうする。
 ブリーフケースを抱え込み、私は急いで教室を飛び出した。もう引力に逆らえない。追いつけなかったら大声を上げてしまうかもしれない。「私も好き」そう叫べばいいだろうか。


2015.12.09

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