なないろのスピカ



 背は高いけれど物静かで理知的な雰囲気の彼が、運動部のレギュラー部員だと知ったのは二学期に入ってからだった。

「知らなかったの? バレー部強いんだよ、うち」
「バレー部なんだ」

 目を丸くする友人にそう相づちをうつと、彼女は「そこから?」と言ってさらに驚いた。言われてみれば、彼が部活用のジャージを着て校内を歩いている姿は見たことがあるし、朝のホームルームぎりぎりの時間に、何人かの生徒とともに教室にかけ込む姿も記憶にある。それなのに、なぜか私は彼が運動部員だということに意外性を感じていた。落ちついた表情だとか、丁寧な喋り方だとか、そつのない態度だとかそういうところに、私が勝手に文学的なイメージを抱いていたせいだと思う。彼がハードで有名なうちの高校のバレー部に所属していて、毎日体育館で汗を流しているところというのはなかなか想像ができない。

 そんな赤葦くんと、言葉を交わす機会が訪れたのは木曜日の放課後遅くのことだった。部活上がりらしい彼は上下のジャージ姿で教室へ入ってきて、「あ」と声を上げた。

「お、つかれさま」
「どうも。電気ついてたからなんでかと思ったけど、名字さんだったんだ」

 彼はその辺の男子のように動きがガサツでないし、教室では座っていることが多いためあまり意識しないけれど、こうして見るとやはり背が高くしっかりとした体つきをしている。彼が私の名字を知っていたことへの驚きも手伝い、なんだか妙に緊張してしまう。

「……忘れ物かなにか?」
「そう。スマホを」
「赤葦くん、バレー部なんだね」
「バレー部だよ。あ、あった。よかった」

 すたすたと自分の席へ向かった赤葦くんは、机の中からスマートフォンを取り出して息をついた。私の横を通ったとき、ほんのりと石けんの匂いがしたことを意外に思う。体育館にはシャワー設備があるのだろうか。二年間通っているのに知らないことばかりだ。

「バレー、興味あるの?」
「え? あ、うん、いや」

 ぼんやりとそんなことを思っていたところ質問され、曖昧な返事をしてしまう。特別バレーに感心があるわけでもないけれど、赤葦くんがバレーをしているということに興味をもっていることは確かだ。しかしそんなことは言えないので、私は無難な質問を返す。

「赤葦くんはどこのポジションなの?」
「セッター」
「セッターって、ぽーんってボール上げる人?」
「そう。ぽーんって」

 彼が無表情のまま私のまぬけな擬音を復唱したため、思わず笑ってしまう。赤葦くんは意外とおちゃめだ。しかし私の記憶が確かなら、セッターというのはコート上に一人しか立てないポジションだったはずだ。

「二年なのに、セッターでレギュラーってすごいね」
「……セッターは技術もそうだけど、スパイカーとの相性が重視されるから」
「あ、相性いいんだ。スパイカーと」
「みたい。俺も、上げてて気持ちいいし」

 この淡々とした赤葦くんが、スポーツの中で気持ちいいと感じる瞬間があるのだと思うと、バレーというのは凄いものなんだなと思える。その涼し気な目の奥に、彼は一体なにを隠し持っているのだろう。私は近頃彼に対して抱いている興味関心がどのようなものなのか自分でもわからないまま、思ったよりも話しやすい赤葦くんに好感を持ちはじめていた。

「名字さん、こんな時間まで残ってなにしてたの?」
「あ、うん。先生にいろいろ質問してたらいつの間にか」
「勉強の? すごいね」

 切れ長の目をわずかに見開いて彼が言う。なんとなく恥ずかしくなってそそくさと立ち上がった。どちらにせよもう帰るところだ。筆記用具をカチャカチャとまとめ、鞄にしまう。

「……行きたいとこあるんだ」
「大学?」
「うん。けど私の家そんなに余裕ないから、まだ予備校とか行けなくて」
「ああ、そうなんだ」
「学校の先生なら、受講料かからないし」

「なんて、せこいよね」と笑うと、赤葦くんは「せこくないでしょ。入学金と授業料払ってるんだから」と真顔できっぱりと言った。まさかそんな風に肯定されるとは思っていなかったため、少しびっくりして、ついでに心に隙ができてしまう。そして気付いたときには、ずいぶんな弱音をもらしてしまっていた。

「でもだめだ、さいきん全然思わしくなくって」
「そうなの?」
「うん。模試とか受けても手応えないし。こんなんじゃいくらやっても、周りに敵わないよ」

 教室の電気を消して、廊下へ出る。言っているうちに気分が重くなって俯いた。今日だって、本当はこんな時間まで集中して勉強ができていたわけではない。模試の結果表とにらめっこしながら、これからのことを考えていたらいつの間にか日が落ちていたのだ。時間を無駄にしている。軽い愚痴のような響きで言ってみたけれど、きっと上手く笑えていないと思った。消灯後の校内の暗さが救いだ。

「まだ二年なんだから、そんなに焦らなくてもいいんじゃない」

 隣を歩く赤葦くんの声が、暗い廊下と私の胸にしんと響く。彼の声は抑揚が少なかったけれど、穏やかな口調から優しさが感じられて額のあたりが熱くなった。私は小さく「そうだね」と言って、目を細める。今度は笑うことがあまり辛くなかった。
 昇降口を出ると外はすっかり夜の暗さで、東の空に大きな月が昇っていた。電車通学の彼に手を振り、駐輪所に向かう。背後から聞こえた「気をつけて」という声に手を振りかえせば、鍵につけていた鈴がちりちりと鳴った。私の胸もちりちりと熱を持ちはじめているようだった。


 こうして彼と話をした日から、彼を目で追うことが多くなった。
 これじゃまるで恋をしているようだ。恋を、してしまったのだろうか。自分の現状を考えたらそんな暇は少しもないというのに。呆れながら溜息をつく。彼の尖った目尻がふいにこちらを向いた気がして、慌てて教科書に目を戻した。
 くたびれた筆箱からは先日の模試結果がのぞいている。かわり映えのしない成績。伸び悩む偏差値。……しかし、彼の言葉を思い出せばいくらか気分が落ちついた。彼の声は迷いがなく、独特の安定感をもっているため聞いていると安心する。それに、強豪のバレー部において実績をもつ人間の言葉だということが、たしかな説得力をもって私の胸に落ちるのだ。結果主義のようで嫌になるけれど、結果の出ない今の私にとってそれが支えになることはたしかだ。終礼のチャイムを聞きながら、私はあることを決意した。





「名字さん」

 昼休みは教室の喧噪から離れ、自習室で勉強をすると決めていた。一時間もないこの時間を自習にあてる生徒は少ないらしく、大抵私一人がシャーペンの音を響かせている。そんな静かな空間に、静かな声が一つ。

「赤葦くん」
「ごめんね。勉強中」
「ううん。ちょうど戻ろうと思ってたところ」
「……この前」

 先日と同じようにばたばたと筆記用具を筆箱に詰め込みながら、模試の結果ともどもブリーフケースに放り込む。彼は珍しく少し言い淀みながら、じっと私の目を見た。その目の中にある静かなエネルギーを感じとり、私は思わず息を吸った。

「名字さんに余計なこと言ったかもしれない」
「え?」
「まだ二年だからこれでいいとか、そういうふうには思えないよね。自分に置き換えたらそう思った。悪いこと言ったなって、ちょっと気になってたんだ」

 赤葦くんはそう言って、ようやくわずかに目線を外した。ドキドキと脈打つ心臓をごまかすように、いきおいよく首を振る。

「そんなことないよ。私じっさい焦りすぎてたし、赤葦くんと話して力抜けたから」

 それはまぎれもない事実だ。彼の言葉はとても励みになった。けれど、今私を支えてくれているものは他にもある。彼があの日私の話を聞いてくれたこと、そして今日までそれを覚え、気にしてくれていたこと、それと同じくらい、いやそれ以上に圧倒的に、心をふるわせる出来事を私は先日目の当たりにしたのだ。

「は、恥ずかしいんだけどね」
「……?」
「この前、見に行ったんだ。梟谷の試合」

 私の言葉に、彼はまた少しだけ目を大きくして、手にしていたペットボトルのお茶をくるくると持ち替えた。あったかさを主張するオレンジ色のキャップが意外だと思った。

「そうなんだ。先週の公式戦?」
「うん。なんか、思ってたよりずっとすごくて。あ、見くびってたわけじゃないんだけど……!」
「うん」
「私の知らない世界だった。圧倒されちゃった」
「……うん。でも、なんで涙目なの? 今」
「……ご、」

 自分でも驚いてしまうけれど、あの時感じた胸の昂りが、言葉にすると今でも強くせまってきてどうしようもないのだ。

「ごめん。あのね、ほんとに感動して……思い出してもぐっとくるくらい。みんなすごくかっこよかった。赤葦くんも」
「……」
「おかしいね!? わたし関係者でもないのに! 情緒不安定なのかな!」
「いや、おかしくはないけど」

 彼はわずか俯いて、いつもの抑揚を感じさせない、けれど少しだけ語尾の滲んだような声で、「照れるね」と言った。私はそれを見てなんだかさらに泣きそうになった。みんな必死でほしいものに手を伸ばしている。落とすまいとしている。やっていることが違っても、そこにあるきりきりと胸がいたくなるような喜びや苦しみは一緒なんだろうと思った。コートに立つ彼らを見ていたらそう思えた。

「あと名字さん、そういう顔やめてくれる」
「えっ」
「俺弱いみたいだから。泣き顔」

 弱いと言いつつやっぱり冷静な目付きを保ったままの赤葦くんは、そのまま小さく口角を上げ、頬を緩めた。

「またなんか変なこと言いそう」

 変なことなんて言われていないし、今日だって言わないのだと思う。けれど彼が困ったように笑うから、私は一度鼻をスンと吸ってうなずいた。大きな手が伸びてきて、オレンジキャップを差し出される。

「カテキン。記憶にいいって」

 あったかい。心の熱がまた一度上がってしまう。


2015.11.5

- ナノ -