彼には大抵の場合恋人がいたけれど、彼が「誰かのもの」に見えることは少なかった。
自在に操られる大きな体や、奔放に移り変わる表情、その内に秘められた複雑な感情は、私たちのように身も心もそう大きくない女子高校生一人の手に収まるものとは思えなかったし、実際に手にあまり取りこぼしてきた女の子たちは後を絶たないようだった。人はそれを「モテる」と褒め、時に「チャラい」と貶し、最終的には「しょうがない」と結ぶ。及川徹だからしょうがない、と。
「彼女、呼んでるよ」
「あの子、彼女じゃないよ」
体育館の片隅、クラス列の後方から彼を呼んでいる女子生徒がいることに気付き肩を叩くと、彼はそう言って反対側を指差した。
「彼女はあっち」
「あ、そうなんだ……ごめん!」
デリカシーのない発言をしてしまったことが恥ずかしく、とっさに小さく頭を下げる。彼は私に向けて緩やかに口角を上げると、そのまま背後に目を向け、彼女ではないらしい女の子と大きな声で会話をはじめた。
「なあにー?」
「及川さっき自販機に百円忘れてたよー」
「えっマジで!」
「いるー?」
「いるいる!」
「えっケチじゃん」
「何それ!今月ヤバいんだって」
たわいのない会話でも、彼がすると学園ドラマの一コマのように聞こえるのは何故だろうか。なかなか始まらない学年集会に暇を持て余し、周囲の人間と雑談や小突き合いをしはじめた生徒の群れの中でも、彼の姿は一際目立って見えた。それはおそらく単純に声の大きさや背の高さのためではなく、整った造形や洗練された立ち姿、もしくは癖のない声色や憎めない仕草などが人の心を引き止めて、彼にフォーカスを当てさせるのだ。カリスマ性とはそういうものである。
彼女と指差した女の子のすぐ脇で、嫌味なく、しかし楽しそうに会話を弾ませる及川くんを見て、私はどうしてか心がしくしくと痛むのを感じた。だって全然違わない。私には彼女じゃない女の子も、彼女も、そして私ですら、彼にとって何も変わらない存在のように思えてしまう。それはきっと誰が悪いということでなく、強いて言うならば及川くんの持つ「誰のものでもなさ」が悪いのだ。
彼は誰かを簡単に抱きしめられるだろうが、その誰かが彼を受け止め続けることは難しい。
私は彼を買いかぶりすぎているだろうか?
しょうがない。私はかれこれ三年間も盲目的な瞳で彼を見続けているのだから。けれども、彼を見ている人は多すぎて、ずっと見ていることなんて個性の一つにもなりはしないのだ。私は彼に所有されることすらできない。
「……へーき?」
「…………え、……あっ」
「立ったまま寝てた?」
気付けば、私を覗き込む彼の顔がそこにあった。
ふわふわとした前髪の下で、鳶色の瞳が揺れている。彼を見ている私を、彼が見ることはとても少ないため、私は驚きで息が止まりそうだった。吸い上げた空気はどこかへいったまま帰ってこない。
「あれ、なんか気絶してる?大丈夫?体調悪い?」
「ぜ…………全然へいき!なんかちょっと、夢みてて!」
「目開けたまま?器用だね」
「うん!よく、あるの!」
「よくって名前ちゃん、それマズいよ」
ぶっはと笑った及川くんの声はやはり煌めいていて、こもりきった体育館の中そこだけ立体音声のように浮き立っていた。
「平気、平気だからもう前向いて!ほら、集会はじまる!」
やっとのことで壇上に上った学年主任の光る眼鏡を指差して、いたずらな視線を自分から逸らす。彼は「はーい」と良い返事をして前を向いた。私はとにもかくにも、これ以上彼の彼女に嫌な思いをして欲しくないという一心だった。なぜなら彼女の痛みは私の痛みでもあるからだ。何様かと思われるかもしれないが、彼の伸びやかな無神経さが誰かを傷つけるのを見るのが辛かった。そして同時に、彼のそんなところをとても愛しく思っていた。私の想いは様々な障害をつたい、二度、三度と屈折している。
こっそりとため息をついて、上を向いた。天井にはバレーボールが二つ、窮屈そうに挟まっている。今の彼が掴んで離さない物はあれだ。そしてきっと、これからだってずっとそうだ。
いつか、彼も誰かに所有される日がくるのだろうか。
その未来を想像し、私は少しだけ残念に思った。そして、とてもとても羨ましく思う。
彼を収めることのできる、魂の大きさを持つことを、だ。
2014.10.17
及川徹と"彼女ではない誰か"企画「
その席はひとつ」提出