しめった空気が匂い立って、息苦しいほどだ。畑を横断する国道にめぼしい建物はなく、私たちは遠くに見える住宅街まで足を早めるしかなかった。
「よりによって、いやな日にやっちゃったね」
「及川、待って」
二人して降り過ごしたバスはうとうとと船を漕いでいるうちに隣の市まで来てしまっていた。飛び起きて降りる頃には、二人の住む町は遠く彼方、入道雲の下だ。よく晴れた夏の午後に田舎道を歩いたりしたら陽に焼けてしまう。そう思っていたのに、雲はあっという間にくすみ、たれ込み、あたりを不穏に覆っていった。夏の天気はめまぐるしい。
「走れる?」
「走れるっていうか、走ってる」
及川の早歩きにすら置いていかれそうな私は、すでに精一杯走っていた。スクールバックの紐を右肩に食い込ませながら小走りでよろめく私を見て、彼は信じられないほど弱っちい生物を見た、という悲しげな顔をした。強豪運動部でレギュラーをはる彼と私じゃ、体力も持久力も肺活量も足の長さも天と地なのだからしょうがないと思う。
「貸して」という声とともに軽くなった肩に顔を上げると、私のバッグを軽々とリュック背負いにした及川がこちらに向かって右手を差し出していた。その手にぽつりと雨が落ちる。一粒落ちれば、後は早かった。畑を打つ雨の音がサアサアと波のように近づいてきて、私たちを飲み込んでいく。歩道はあっという間に雨の色に塗りつぶされ、アスファルトの匂いが強く香る。私をぐいぐいと引っぱっていく、及川の濡れた手にしがみつき駆けだした。襟足をつたう雨粒が、ローファーを鳴らすたび首元に落ちてくすぐったい。水の味がして息が苦しくなる。きっとゆっくり走ってくれているのだろうけど、及川の手を掴んでいるのがだんだんと辛くなって、転ぶ前に自分から手を離した。
「あそこまでだから、頑張って」
彼の示した先を見ると、畑へ下りる道路脇の階段の横に、雨宿りのできそうなくぼみがあるのが見えた。前を行く彼の背を追い、なんとかそこまでたどり着く。息を乱す私の横で、及川は自分のエナメルバッグからタオルを取り出して匂いを嗅いでいた。
「これ、汗臭くないと思うけど」
「あり、が、とう……全然へいき」
受け取って、まず顔を拭く。濡れた前髪がおでこに張りついて、きっとおかしなことになっている。タオルに顔を埋めながら及川の方を伺い見ると、いつもふわふわと靡いているやんちゃな髪質がぴたっとボリュームを落とし、額や首元に流れていたため、思わず目を逸らしてしまった。かっこいい人はどんな状態でもかっこいいのだろうけど、「雨いっぱい飲んじゃった」と笑う及川はかっこいいだけじゃなく気が緩むようなかわいさを持ち合わせているから、たまらない気持ちになる。
「ごめん、タオル濡れちゃった」
「いいよ、俺てきとーにTシャツとかで拭くから」
一度意識するとなんだか普段と違う人のようで、いつもの及川を思い出そうと頭を巡らせれば記憶の中の及川もやっぱり格好良くて、心臓がどんどん高鳴ってしまう。濡れた制服が火照った肌のせいで生温くなって、心地が悪かった。
「冷たくない?」
「うん。生ぬるい」
「……どうしよっか。それ」
「それ?制服?しょうがないよ。及川だって一緒でしょ」
「一緒じゃないでしょ。俺透けるものとかないし」
そこまで言われて、ようやく及川の凝視しているものの正体がわかった。自分の角度からだとそうわからないけれど、きっと遠目からは透けて見えてしまっている。幸い薄い色のそれは無地だしそこまで目立たないはずだけれど、途端に恥ずかしくなってタオルで隠した。
「……見えた?」
「見えた。水色、好き」
褒められているのかなんなのか、及川が感慨深げに頷いたためよけいに恥ずかしくなる。私の下着なんかより及川の肌に張り付いたワイシャツの方がよっぽど色っぽいと思ったけれど、世間的にはやはり女子高生の制服から下着が透けている状態は良くないのだろう。このまま帰るわけにはいかない。
「今拭いちゃったけど、このTシャツ着る?」
「でも、及川は?」
「俺はべつにこのままでも」
バレー部チームカラーのそれは、よく彼らが練習着にしているものだ。及川の部活Tシャツを着るなんて、きっと多くの女子が泣いて羨ましがるシチュエーションだろう。そう思うとやっぱり意識してしまい、うまく頷くことができない。
「着なさいって、俺も目のやり場困るから」
あれだけ凝視しといて目のやり場もなにもないと思うけれど、そこまで言われて断るのも痴女のようなのでおそるおそる受け取った。しかし体育の時間のように着替えようにも、全身びしょびしょの体でブラウスの上からTシャツを被るのでは、全部濡れてしまい意味がない。ブラウスを先に脱いで、出来ればタオルで体を拭いてからTシャツを着たかった。
「及川……あのさ」
「うん?」
「ガード、しててくれない?」
「ガードって?……ああ」
及川の大きな体なら、私を覆い隠すことは容易い。こんな雨の中で見ている人がいるとは思えないけれど、堂々と服を脱ぐ勇気もないため彼に死角を作って貰いたかった。
「こんな感じ?」
「……位置はいいけど、なんでこっち向いてるの?」
「えぇっ」
角っこに私を隠し、こちらを向く及川に当然のツッコミをしてむこうを向かせる。背中合わせで壁の方を向いて、いそいそとブラウスを肌から剥がした。下着まで染みてしまっているけれど、さすがに外すわけにはいかない。手早くタオルで拭いて、Tシャツを被る。着る前から予想はしていたけれど、スカートの裾まで隠れかねない長さだ。ちらりと見えたタグにはLLという未知のサイズが書かれていたのだからしょうがない。
「どう?」
「待って!」
「うわっ」
良いって言うまで振り向かないで、と言った私の言葉を無視してこちらを見た及川が、手の甲で口を覆いおどろいた声を出す。
「名前、ダメだねこれ!なんかよっぽど不健全だ!」
「い、いま、裾なかに入れるから」
「むり、なんかもういろいろむり」
「なにが?」
何かが無理らしい及川はむりむりと続けざまに言いながら、そのまま両手を壁に付いた。
「ちょ、無理はこっち!そんな流行りのらなくていいから!」
「いや、流行るだけあるね、この体勢」
「どいて、おちついて」
「無理だって、彼シャツでびしょびしょでこの体勢とか、いくら及川さんでもおちつけない」
付き合ってもいないのに彼シャツもなにもあるか、と言う前に、及川の大きな手が肩に触れ、かがみ込んでくる顔が見えた。反射的に目をつぶってしまい、彼の思うツボと気づいた時には唇が触れていた。やわやわと押しあてられたあと軽く吸われ、お手本のような余裕のキスに、無理なんて言ってるのは口だけで本当はこの状況を楽しんでいるんだと思った。
そのまま耳や頬に唇をすべらせた彼が、小さく言う。
「名前、水の味がする」
夕立の湿度が二人を包んでいる。遠くの空に光が差しているのが見えた。彼の向こうで、雨が上がろうとしている。
15.6.26