1mとすこし



「牛島くんも、消しゴムとか使うんだね」

 五限目の自習時間がはじまり、十分が経ったころだ。牛島くんが落とした消しゴムを拾い上げその大きな手のひらに乗せたとき、つい漏れてしまったのはそんな不躾な本音だった。

「……? 俺だって字くらい間違うが」
「そ、そうだよね。ごめん」

 いやな顔をするでもなく明快に答えた牛島くんに、なんとなしに謝る。彼は表情を変えず「わるかった」と言って消しゴムを筆箱の脇に置いた。なんの変哲もない紺色の筆箱からは、なんの変哲もない修正テープや蛍光ペンが見え隠れしている。なんだか不思議な気持ちになった。
 中学の頃は、私もそれなりに熱心にバレーに打ち込んでいた。宮城でバレーをかじっていた者なら、例え女子だろうと彼の存在は知っている。中堅校の私たちが大金星のすえに進出した仙台市体育館で、はじめて彼のスパイクを見た時のことが忘れられない。とても同じ中学生とは思えず、ネットを挟んで対峙する男子バレー部員に同情した。彼は鋭い目を尖らせて、口を真一文字に結び、コートの真ん中に君臨していた。
 あの頃よりさらに大きく強くなったのだろうジャパンユースの牛島若利は、私にとって雲の上の存在、別次元の人間だった。こうして、クラス替えのすえ隣の席になるまでは。
 窓の外を眺めるふりをして、牛島くんの手元を見る。そして、あのダイナミックなスパイクを生み出す彼の豪腕の、その先の指が小さな消しゴムを摘んでいることに妙なかわいらしさを見出してしまった。なんてことはない、こうしていれば彼だって普通の男子高校生だ。バレーをやめたからこそ、そう思える。

「何か良いことがあったのか」
「え?」
「笑ってる」

 机にどしりと両腕を乗せて、牛島くんはいつのまにかこちらを見ていた。びっくりして思わず背筋が伸びる。標準規格の机と椅子は、彼には少し窮屈そうだ。

「良いことっていうか、牛島くんがその、隣の席だから、あの」
「俺が気になるのか」
「え……っ!」

 突如打ち落とされたストレートな問いに、私はますます言葉につまり、背筋はどんどん伸びた。彼が得意なのは左のクロスじゃなかったか。こんな直球は予想外だ。受けとめきれない。

「……? バレーが好きなんじゃないのか?」
「あ……!うん!」

 彼はどうやら天然のようだった。天然のボケ、ではない。どちらかというと天然の自信家、というやつだ。おそらく常に誰からも注目され、気にかけられられてきたのだろう。そこに今さら照れはないのだ。しかしそれにしたってすごいと思う。一歩間違えれば自意識過剰なのに、邪心のないまっすぐな瞳がそんな勘ぐりをばかばかしくさせる。

「好きだよ、バレー。中学まで私もやってた」
「そうか。なんで辞めたんだ?」
「……なんでだろう」

 無口だと思っていた牛島くんは思いのほか速いテンポで会話のスパイクアンドレシーブを続けてきた。ちらりと彼の机に目を向ける。自習のプリントは最後まで終わっており、しかし問二、問三の解答欄はずいぶんスペースが余っていた。いわゆる書かせる問題のところだ。回答スペースの八割を埋めてようやく点が貰えるであろう考察問題なのに、彼の解答は主語、述語、修飾語の三語ほどで終わっている。内容はあっているのかもしれないが、これでは教師も採点に困るだろう。

「理由がないのか?」

 そんなことを考えているうちにもう一度問いかけられ、私はうーんと首をひねった。まったくよくわからん、という顔で私を見つめる牛島くんに、たしかに私の気持ちはわからないだろう。世の中のほとんどのことは、三語じゃ言い表せないのだ。

「理由がありすぎて、まとまらないってだけ」

 私は曖昧にそう言って、なんとなく気恥ずかしくなったため前を向いた。言われてみれば、どうして私はバレーをやめたのだろう。練習に疲れたから?才能がないと思ったから?他にやりたいことがあったから?すべてその通りなようで、どこか違う気がした。

「無神経だったらすまんが」
「え?」
「俺がバレーを辞める理由で思いつくのは、一つだけだ」
「……なに?」

 今まで端的に率直に言葉を発していた牛島くんが、はじめて一つ前置きをした。その意味を考えるまもなく、私は先を促す。聞く前からドキリと胸が脈打った。おそらく「一つ」と言いきったその力強さに、私はすでに負けていたのだ。

「自分を、信じることができないから」

 彼の豪腕は、言葉においても健在のようだった。プレイには性格が出るというけれど、迷いなく腕を振るう怪童ウシワカの性格にはやはり迷いがなく、窓の白さを逆光とするその体は実際以上に大きく見えた。

「やっぱり無神経だったか」
「……ううん」

 首を振り笑うと、彼は机に向き直り、消しゴムでプリントのどこかをごしごしと消した。そして小さく、もう一度言う。

「やっぱり、無神経だったな」

 本当に、そんなことないよ。私はそう思ったけれど言葉にはできず、見えているかわからない首をさっきより強めに振った。私だって「消しゴム使うんだね」なんて馬鹿なことを言ってしまったのだしお互いさまだ。身近に感じた先ほどとは打って変わり、やはりこの人は別世界の人間なのだと実感してさみしくなる。それと同時に、彼の姿を最初に見た時のことを思い出した。私は彼に圧倒されると同時に、ずっと見ていたい、もっと知りたいと思ったのだ。その思いが私の中にあるものを生んだ。

「ねえ、こんどの県予選見に行ってもいいかな」
「それは俺が決めることじゃない」

 確かにそうだ。私が行きたいなら行けばいいだけだ。もう一度反射的に謝ろうとした私を、彼の声がさえぎる。

「ただ、応援が多いのは、いつもありがたく思ってる」

 まっすぐ前を向いて、牛島くんはそう言った。それまでの言葉と比べて、少しぷつぷつと途切れるような言い方だった。

「うん。応援しにいくね、メガホンもって」
「予選でメガホンを持ってる奴はあまりいない」
「いいの。持ちたいんだもん」

 一人メガホンを振る自分を想像し、少し楽しい気持ちになる。やめてから遠のいていたバレーだけれど、もう一度視点を変え見てみるのもいいかもしれない。それに一生懸命な人を応援するとき、そこで力が行き来することを知っている。エネルギーは何倍にもなって返ってきて、私の力になるのだ。

「牛島くん、私スポーツ記者になりたいんだ」
「そうか。俺も応援しよう」

 こちらを向いて、牛島くんが言った。笑ってはいなかったけれど、どこか優しい言い方だった。少なくとも私にはそう聞こえた。誰に注目されるでもない私だけれど、彼の視界に入るとき少しだけ体温が上がる。今のところそれで充分だった。

2015.4.27

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