時計の針は午後四時ちょうどを指していた。この時間に、彼が家にいることは珍しい。
「今日は動いちゃいけないんだと」
青城高校のバレー部に定休日があると知ったのは最近のことだ。基本的にオフである月曜日にも、市街でロードワークをしたりトレーニングルームで筋トレに励んだり近所の体育館で体を動かしたりと、彼はなんだかんだ家を空けているため、てっきりいつも部活帰りなのだと思い込んでいた。
「休息は大事って、一くんよく徹くんに言ってるじゃん」
「そらそうだけど、やっぱり体動かしてないと落ち着かねーんだよ、俺も」
正反対のタイプであっても根を詰めるところは似ているようで、息をするように筋繊維をぶっちぎる体育会系野郎たちにとって、休息というのはなによりもハードなトレーニングのようだった。鍛え上げた体躯をうずうずと丸めながら、岩泉一はバレー雑誌に視線を落としている。
「つかお前こそなにしてんだよ、俺の部屋で」
「べつになんにもしてないけど、一くん高校入ってから忙しくて全然会えないんだもん。元気にしてるの?」
「元気にしてるから会えないんだろーな」
紙面から顔を上げもせずそう言った一くんに、なんだか悲しくなって足の指をもぞつかせた。明るい時間に帰宅する彼を庭越しに目撃し、大急ぎでチャイムを鳴らしたというのに彼の反応は薄い。べつに私たちの歴史の中で彼が私を爽やかに迎え入れるシーンなどはどこにもなかったが、こうしてたまに会った時くらい愛想よくしてくれてもいいのにと思う。愛想のいい一くんなんてちょっと怖いけれど、せめてまあ、こっちをむいてくれないものだろうか。
こちらをむいているのはTシャツの無地だけで、その無骨な背中が昔より大きくて頑丈そうだったから、思わず飛びかかりたくなってしまった。べつにおかしな意味じゃない。なんだかむかむかもんもんムラムラしているだけだ。……ムラムラ?
「一くん……」
「あー」
「一くんってば」
「あんだよ」
生返事の声だって以前と比べれば考えられないほど低い。彼とろくに会っていなかったといったって、家は近いのだから接触はしていた。それなのに、今こうして久しぶりに彼の部屋に来て、岩泉一という男がすっかり男であることをしみじみと感じていた。首だって腕だって、私のイメージの中のそれより一回り太い。広くて厚い背中は、本当にあのやんちゃでしょうがなかった小学生の一くんから連続して成るものなのだろうか。男の子って怖い。こんなのずるい。全体の雰囲気は昔からあまり変わらないのに、細部の造りが男になったおかげで印象ががらりと変わっている。矛盾しているようだが男の子の成長というのはそういうものなのかもしれない。
私は彼が私に目もくれないのを良いことに、何気なく背後まで距離を詰め、まじまじといろんなところを見つめてみた。近くで見れば見るほど、なんだかさらに信じられない。私が着たらがっぽりと布のあまりそうなTシャツが、たくましい肩や胸をほどよいサイズ感で包んでいる。筋張った腕などは私の肌とまったく違っている。なにやらやたらとドキドキして、手のひらの方まで視線を滑らせることができない。それなのに無性に触れたくなってしまい、私は引き寄せられるように、ふらふら、ふらりと──。
「……どしたよ」
「……なんか……ごめん」
彼の肩にぴったりと額を寄せ、何を言うでもなく寄りかかる。一くんはその体勢を三十秒ほど受け入れてから、ふいに尋ねた。彼の体はすっかり成長しているのに、遊び足りない小学生のように熱をたくわえているのがかわいくて胸の辺りがきゅっとなった。どうしたと聞かれてもうまく答えられず言葉を濁す。なんだかわからないが彼から離れたくなかった。
「触ってていい?」
「いいけど……いや、やっぱ駄目だ」
「なんで?」
「駄目だろ!お前大丈夫か?」
「大丈夫だよ。いいじゃん触るくらい。ケチ」
「あァ?ケチとかじゃないだろーが!」
乱暴な言い方をしたって、彼の性格を知っているためあまり怖くない。一くんはぶっきらぼうで口調は雑だけれど、本当のところは冷静で優しいのだ。
「落ち着かないから離れろ、あちい。暇な時のクソ川かよ」
「暇だよ岩ちゃーん」
「真似すんな殴るぞ!」
「きゃー殴って殴って!」
「……」
かまってくれることが嬉しすぎておかしなテンションになっている私は、久しぶりに彼に怒られることが楽しくてしょうがなかった。鬱陶しい反応だと自分でも思うが、なんだか高ぶる愛情を抑えられない。このまま飛びついて犬のように顔を舐め回したい気分だ。しかし呆れモードが一段上がったらしい一くんは、調子にのった相棒セッターに向けるようなヤクザな顔をつくり私を睨んでいたため、少し怯む。
「怖い」
「おめーが怖いわ」
「一ちゃんの方が百倍怖い」
「ちゃんって言うな」
中学の頃に矯正されたちゃん付け呼びを復活させてみると、彼は我慢が限度を超えたのかため息をついてすっくと立ち上がった。億劫そうに床から雑誌を拾い上げ、私から距離をとってベッドの端へ座り直す。片膝だけ組んでむすっと雑誌を読みふける様は休日のお父さんのようだ。それならば私のすることは一つだ。
「いつまで読んでるのー」
「……」
「かまってよー」
「……」
「せっかく久しぶりに一ちゃんに会えたのにー」
ベッドに乗り上げて、背後から背中を揺する。しかし無視をすると決めたらしい彼はなかなか手強く、突ついても叩いてもまんじりとも反応を示さない。時おりページをめくっているため、本当に紙面を読み進めていることが伺えて悔しかった。彼は私とコミュニケーションをとりたくないのだろうか。あんなに仲が良かったのに、高校でたくさん友達が出来て、部活動も充実し、もう幼なじみとじゃれあうことなどどうでもよくなってしまったのだろうか。そんなのは堪え難いことだ。徹くんとは今だってあんなに仲がいいのに、バレーという彼の中枢を共有できないというだけで私の存在はお払い箱になってしまったのだろうか。そんなのは、そんなのは勝手だ。私はずっと一ちゃんを慕っているのに。こんなに好きなのに。
「一ちゃん……」
急激に悲しみが押し寄せた私は、大きな背中に抱きついて負け犬のような声を出すしかなかった。しがみついた両手に固い腹筋の感触がする。本当に、いつのまにか彼は私の手の届かない存在になってしまったのかもしれない。
「一ちゃん」
短く刈り揃えたうなじのあたりに、鼻先をつける。どうしようもなく彼のことが好きだった。友情だとか恋愛だとかそんな括りを気にしている暇がないくらいに、私は彼を好きなのだ。好きってなに?と聞かれたってそんなのは知らない、好きは好きだ。逆切れするほかない。
「一ちゃん、もう幼なじみとなんて、ダサくて仲良くしてられないの?どうしてこっち見てくれないの」
ほとんど泣きそうな声でそう言うと、今までぴくりとも動かなかった彼の肩が大きく揺れた。バサンと大げさな音を立てバレー雑誌が閉じられる。しまった、と思った時には遅かった。怒らせてしまった。この雰囲気は、おそらく本気で切れている。長い付き合いの中でも数度しか見たことのない彼のマジ切れモードを今まさに目の当たりにし、私の身は大いにすくんだ。
「は、はじ……」
「オイ」
「はい!」
ドスの利いた声はやはり尋常じゃない。とっさにかしこまって正座をすると、一くんは片足をベッドの上に乗せ、勢いよく振り向いた。反射的におののいた私の肩をがしりと掴み、無言で私を見つめる。ものすごいヤクザ度になっていると思った彼の顔は意外にも落ち着いており、代わりとばかりに目の奥が静かに、熱く燃えていた。怒りとも脅しとも違う雰囲気に、身じろぎの一つもできなくなる。座っていても体格の違いが如実に現れるくらい、私たちの成長はそれぞれ別の方向にひた走っているようだった。怖い。怖いけど、好きだ。やっぱり私は一くんが好きだ。
「……いいか名前」
「え……?」
「落ち着け。俺も落ち着くから」
「落ち着いてるよ」
「俺は落ち着いてねえんだよ」
「……ねえ一くん。今もしかして、すごく怒ってる、よね?」
「おっ…………こってねえよ」
どうやら怒っていないらしい彼は、しかし落ち着いてもいないようだった。それは彼の体温からもわかる。この場所、この状況で落ち着けない理由なんてそういくつも思いつかないが、私はなんとなく答えにたどり着くのが怖くて逃げ道ばかり探していた。だってそんなのは都合が良すぎる。
「一くん」
「名前、呼ぶな。頼むから」
肩を掴む力が強くなり、正直痛かったけれどそんなことは言えなかった。私の遠ざけた答えはさっきからぐんぐんと近づいて来ているようだった。どうしたって顔が赤くなる。私が赤面して息を詰まらせると、彼は勘弁しろ、という風に顔を歪めた。
「ほんとに、お前、馬鹿……」
「だって……一くんが」
「俺のせいかよ?」
挑発的な顔で笑いながら怒る一くんはとっても怖いけれどそんなこともやはり言えない。ここは一つ起死回生の一手を打たないことには、私は何かをなくしてしまうらしかった。べつに彼相手に不満なんて一つもないけれど、恐怖は少し、いやかなりある。嫌じゃなくても、怖くないということはないのだ。ビビリで奥手なら尚更だ。
「は、一くん」
「呼ぶなって言ってんだろバカ記憶力ねえのかお前はボケ」
しまった選択をミスった。そんなこと言ったって記憶力どころか思考能力すら怪しい今の状態で最前手なんて探せるはずもない。とうとう私の両肩を掴み体重をかけてきた彼の力に逆らえるわけもなく、罵詈雑言を受けながら布団の上に倒れ込む。ずいずいと私の上に跨がった一くんのスウェットや裸足がなんだかとても懐かしく、そして昔からよく知る彼が雄として私を見おろしていることに目眩がした。
「かまってやるから文句言うなよ」
「一くん、今日は、体動かしちゃいけないんじゃ……」
「無理があんだよ、そんなのやっぱり」
体いっぱいにフラストをためた運動部男子の体力を、私は受け止めきれるのだろうか。どう考えても無理な気がする。ぶっきらぼうで雑に見える彼のもう一つの一面に期待して、この身を預けるしかないようだった。
とどめを刺すように頸動脈めがけて噛み付いてくる一くんの、大きな体に手を伸ばしながら、Tシャツの内側のことを思った。
2015.1.3