アフターザット
※モブ彼氏有り



 私を殴った私の彼氏を、ハジメくんが殴ってから二日が経った。

 大学生になった今でもバレーを続けているハジメくんが、学校側から受けた処分は二週間の部活謹慎と次練習試合への参加禁止。事情が事情なだけに彼を庇う先輩やOBは多かったけれど、保身を度外視した彼の右ストレートは誰もが認めるほど見事なものだったため、処分が軽くなることはなかった。
 それでも、高校時代ならチームの連帯責任となって各大会への出場権すら危うくなるところだったことを思えば、この歳になるまで我慢して良かったと自分の忍耐力を虚しくも褒めるしかない。いや、そもそも我慢なんてせずにあのしょうもない男とさっさと別れていたのなら、彼にこんな迷惑をかけることもなかったのだから、やはり褒められることなんて何もなかった。情とか未練とか事なかれ主義とかなし崩しとか、私が溜め込んださまざまな業をまとめて彼に肩代わりさせてしまったことをどう償えばいいのかわからない。会わせる顔なんて、あるわけがなかった。

「熱、どうだ」

 それなのにこうして会いにきてくれる彼は、本当に、困るくらい男前だ。中学高校と彼の間近で育ったというのに、どうして私はこの人じゃなくてあんな男を好きになってしまったのだろう。今さらながら心底疑問だった。

「……ごめんね、ハジメくん」
「なんで謝ってんだよ。お前どう考えたって被害者だろ」

 彼はそう言って溜め息をつき、ベッドの前にあぐらをかく。

 確かに私はあの男に浮気をされていたけれど、そんなことはとっくの昔から気付いていたことだった。関係を壊す勇気が出ず、事実を言葉にする恐怖にも勝てず、なあなあのままここまで来てしまったことは私の責任でもある。私が気付いていることにあの男だって気付いていたのだろうから、それすら見て見ぬ振りしていた私に救いはない。
 それほど馬鹿な私の我慢に限界がきたのは、彼が自宅に浮気相手を呼ぶようになったからだ。どちらのものでもない香水の香りが部屋に残っていたり、履いた覚えのないストッキングが洗濯機から出てきたりと、そこまではなんとか耐えられた。でも、ゴミ箱にこれ見よがしに捨てられていた使用済みの避妊具を発見してしまった時、私の中で何かが崩れ落ちた。この部屋で彼が他の女とセックスをしていたというこれ以上ない決定的な証拠に、私の哀れな事なかれ主義は打ち砕かれたのだった。もう何の言い訳もできなかった。私から私に対する、だ。

「浮気してるの?」

 単刀直入に問いかけた私に向かい「今さら何だよ」と顔を歪めた男の顔が頭から離れない。憎らしいからじゃない。とても寂しそうだったからだ。私たちは本当に取り返しがつかないくらい間抜けで不器用で愚かだった。私はその時点で、既に彼に同情しきっていた。それを感じ取ったのだろう、後に引けなくなった彼は私をなじり、なんとか私を怒らせようとした。しかしもう、私に怒る気力など残っていなかった。
 いつまでもどこまでも沈んだ目をするのみの私に「なんで最後までそうなんだよ!」と激昂した彼は、私の頬を殴り飛ばした。
 謝ったのは私の方だった。ごめん。でもそれ以外に言葉が出てこなかったのだ。彼は泣いていた。私は涙さえ出なかった。





「……私にも非はあったから」
「お前、まだそんなこと言ってんのかよ」

 あの日アパートからの帰り道で偶然会ったハジメくんは、「久しぶり」と言いかけ眉を寄せた。
 同じ大学に通っていても、学部は違うし学内は広い。高校卒業以降、彼と面と向かい話す機会はずいぶん減っていた。家が近くても帰り道が一緒にならないのは彼が今でもバレーボールを続けているからだ。私は昔から、コートに立つハジメくんのどっしりとした構えが好きだった。いつだって頼りなく浮き足立っている私にはまったく備わっていないものだ。
 彼はマフラーをぐるぐると巻いてカモフラージュしていた私の頬っぺたを覗き見て、試合中に見せるような、鋭い、真剣な目をした。

「なにした、それ」
「……ちょっと、いろいろあって」
「だから、なにした」
「……喧嘩しちゃって」

 みっともなく誤魔化し笑いをするしかない私に、怒ったような顔を向け彼は一言、静かに聞いた。

「彼氏とか?」
「……うん。あっ、でも、もうダメんなったから。終わったから。平気」

 その言葉に、彼は何も返さなかった。それ以上何も聞かないし言わないハジメくんに、言葉も出ないほど呆れられてるんだなあ、そりゃそうか、と自己完結した私は「じゃあ、オヤスミ」と挨拶をして歩を進めた。 残り数百メートルの帰路を一緒に歩いてくれたハジメくんは、やはり最後まで何も言わなかった。


 週末を挟み腫れも引き、家でうじうじとしていたらますます精神を病みそうだと思った私は、痣を隠すための薄型湿布を頬に貼り、いつも通り大学へと赴いた。
 あの男とも大学は同じだが、鉢合わせてもきっと何も言ってこないだろう。私とはもう顔も合わせたくないだろうし、これ以上の関わりはないはずだ。お互いに全てを忘れてやっていくしかない。泣き寝入りと言われればそうだ。今頃になってふつふつと沸き上がるどうしようもない憤りや悔しさも、飲み込んで私の中でゆっくりと終わらせるしかない。そう思い、なんとか頭を切り替えようと必死だった。
 しかし。学食で居合わせた友人に怪我のことを尋ねられ、なんと言い訳をしようかと答えあぐねている時だった。
 正面のテラスにあの男の姿が見え、一瞬だけ目が合う。驚いた私は咄嗟に視線をそらしたが、彼の燃えるような瞳を見て「甘かった」と思った。私はまた、一人で自分を納得させて、面倒なことを片付けて、勝手に終わらせたつもりになっていたのだ。
 心臓が気持ち悪いくらいに高鳴る。顔を上げなくてもわかった。食堂のガラス扉から入ってきた彼が、まっすぐこちらに向かってくるのを死刑囚のような気持ちで待った。また殴られるのだろうか。こんな公衆の面前で、彼は女を殴るなんていうみじめな姿をさらし、自分の大学生活を棒に振ってしまうのだろうか。ここまで来てもまだ、自分より彼の人生を心配していることを病的だなと自嘲しつつ、私は唇をかんだ。俯いた視線の先に見慣れた派手なスニーカーが映り込む。アパートの玄関に脱ぎ捨てられたそれを、文句を言いつつ揃えてやっていた何気ない日常を思い出し、涙が出そうになった。

「名前」

 苛立ちを含んだ声で名前を呼ばれ、顔を上げる。想像通り、ただごとならぬ顔で私を睨みつける彼がそこにいた。勢い良く伸びた手が、私の腕を掴む。

「ちょっと来い」
「……いま、食事」
「んなもんどうだっていいだろ!」
「まってってば……っ」
「あれで終わらせる気か!?フザケんな!」

 彼の剣幕に、注目を浴びているという羞恥心さえ吹っ飛び、もはや恐怖心しかなかった。二人になったら何をされるかわからないという恐ろしさから必死に抵抗していると、彼がちっと舌打ちをしたのが聞こえた。殴られる。この前も彼は、手を上げる前に舌打ちをした。反射的に歯を食いしばる。衝撃に備え目もつぶった。

 しかし、予想した衝撃はいつまで経っても訪れず、思いとどまってくれたのかと、体の力を抜く。馬鹿みたいだけれど、私はこの期に及んでまだ彼を悪者にしたくないと願っていたのだ。仮にも一度は愛し合った私を、さすがに二度も殴るはずがないじゃないか。きっと今彼は拳を止め、自分の衝動を恥じているのだ。そう思って、目を開ける。でも、違った。

 振り上げた右腕を後ろから掴まれ、行き場をなくした激情に顔を歪める彼の姿がそこにあった。
 腕を掴んでいるのはハジメくんだった。

「んだてめえ離せよ!!」

 聞き苦しい怒号が食堂内に響き渡る。体全体を使って振り払おうと試みるも、肘を掴むハジメくんの腕はびくともしないようだった。私の知る限り中学の頃から、毎日のように体を鍛ているハジメくんの腕力なのだから当たり前だ。
 ハジメくんは何も言わずに彼を睨んだまま、めきめきと音がしそうなくらい握る力を強め、彼がぐっと呻いた拍子に手を離した。
 後は一瞬のことだった。
 彼の体が本当に平行に、滑るように床の上を移動して、人の座っていない椅子やテーブルの中に突っ込んでいって、倒れた。
 周囲の人間は一様にそれを目で追った後、何が起きたのかと視線を戻す。投球後のピッチャーのように綺麗に腕を振りきったハジメくんが鬼のような顔で床に伸びる男を見下ろしており、そのあまりの迫力に、私を除いた誰もがヒッと息を呑んだ。私はそれすらできなかった。

 ハジメくんはさらに無言のまま私の前まで来ると、今度は腕ではなく手のひらをぎゅっと握り、呆ける私を立ち上がらせる。
 食堂を出て、テラスを抜け、校舎を横切り、事務棟の裏へとたどり着くまで、彼は本当に一言も喋らなかった。人の目が完全になくなって力が抜ける。コートを食堂に置いてきてしまったため風が吹くと体が震えた。自分の両肩を抱えて縮こまると、急に目の奥が熱くなってきてどうにも堪えられそうになかった。殴られても出なかった涙が、殴られなかったというのに、ぼろぼろと溢れ出して止まらなかった。

「大丈夫か」

 彼はようやく口を開き、尋ねる。
 いろいろなものを失った悲しさと、彼がくれる優しさとが頭の中で渦を巻いて次々と涙になった。そして私は、この先こんなに心が動く瞬間なんてもうないのだろうと、彼の真っすぐな目を見て思った。

 その目が今もこうして私を見ているから、もう誰が悪いとかなんとかかんとか、そんなことはどうでもよくなってしまったのだ。

「とにかく、もう平気だよ。痣も思ったより小さいし」
「熱はもう下がったのかよ」
「うん。おかげさまで」

 こんなのはきっとただの知恵熱だ。たいしたことはない。私が頷くと、彼はすっくと立ち上がりおでこに手のひらを乗せてきた。

「まだあんじゃねーかボゲ!」
「……でももうだいぶいいよ。すぐ下がるよ」
「そうやって勝手に自己完結するなよ。お前の悪い癖だぞ」

 本当にその通りすぎてぐうの音も出ない。ハジメくんは中学の頃から、人の悪い癖を見抜く能力に長けていた。そしてそれに辛抱強く付き合い、時には叱咤し激励し、矯正、更正してくれるのだ。彼のこのバイタリティは一体どこからくるのだろう。彼の強さはどうやら腕っぷしだけじゃないようなので、とても適わないと思った。

「それにしても、すごい威力だったね、ハジメくんのパンチ。……あっ、心配してるわけじゃ、ないよ」

 さすがの私も、もう彼に対する情は残っていない。面白いように美しく吹っ飛ばされていった彼の映像とともに、それはさっぱりとどこかへ消えてしまったのだった。ハジメくんのパワーが、私の囚われていた幻想を竜巻のように空の彼方へと吹き飛ばしたのだ。

「正直、すっとしました」
「スパイクと違って軸足安定してっからな。めちゃくちゃ見事に入ったわ」

 にやりと笑いつつも、未だに殺意を散らつかせる彼の表情になぜか顔が熱くなり、同時にとても申し訳ない気持ちになった。私のために彼が犠牲にしたものは決して小さいものではない。

「ごめんね。ハジメくん」
「だから謝んな。俺がムカついたから殴ったんだよ」
「うん、ありがとう」
「ったく、ほんとお前は……」

 彼はそう言って、もう一度大きく溜め息をつく。顔は怒っているようだったけれど、その言葉の続きはいつまで経っても口にしなかった。今まで黙っていた分も含め、盛大に叱り飛ばされると思っていたので意外に思う。ここまで甘やかされると逆に不安になってしまう。贅沢を言うようだが、溜まった怒りや呆れを思う存分ぶつけてくれた方が私としては気が楽だった。あの人が私に対して感じた気持ちがようやく少しわかった気がした。しかしもちろん、私とハジメくんとでは全く違う。私はハジメくんと比べたら、何も持っていないに等しかった。そう、私には何もないのだ。

「……怒ってないの?」
「細けぇこた言わねえよ」
「で、でも……」
「でもじゃねえ。俺がいんだろ」

 じっと私を見つめる瞳は、やはりどこまでも真っすぐだ。

「何か不満かよ」

 私は力なく、ゆるゆると首を振るしかなかった。会話の流れは正直よくわからなかったけれど、今ここにハジメくんがいることに不満なんてあるわけがない。そしてきっと、これからもずっとそうなのだと無条件に思わせてくれる力が、その言葉にはあった。

「不満なんてあるわけない。私、ハジメくんと空気があればそれでいいよ」
「……餓死すんぞ」

 ハッと笑った彼の顔が私の心を焦がしていく。もう恋愛なんてしたくないと、思う隙も与えてくれない彼のエネルギーにあてられて、私はまた熱がずんずんと上がりそうだった。私には何もないけれど、私にはハジメくんがいる。それならいつか、私の中にだって何かが生まれるかもしれない。その時はハジメくんに、その何かをプレゼントしよう。どれだけ返しても、足りないかもしれないけれど。

 ハジメくんは力が強い。あの男も力が強かった。力が強くて体の大きな男というよくわからない生き物を、私は嫌いにならずにすみそうだった。そして更にもっとよくわからない私という生き物だって、私は嫌わずにすみそうだ。すべては彼のおかげだ。これは自己完結なんかじゃない。ただ単に、恥ずかしくて言えないだけだ。いつか必ず届けるから、それまで隣で待っていてほしい。

2015.1.1

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