逗留所で薪を得るために、朽ちた柵を壊したことがあった。
四月下旬であるのに雪がちらつき、戦地から戻った男たちを介抱するには火が要った。
しかし夕刻になり帰ってきた彼は、疲れているだろうに真っ先に私の腕を掴み、ボロボロになった私の手のひらを見つめ大きな声で叱り飛ばした。
「傷が残ったらどうすんだ!」
「…傷だらけの人に言われたくない」
「お前ェは女だろうが」
「そうだけど」
「馬鹿」
頭ごなしに言われ、私は高杉の手をぶんぶんと振り落とす。
「確かに私は女だよ。だからと言って痛みも知らないまま、残るものもないまま、見て見ぬふりして生きてけっていうの?」
私だって痛いのなんて嫌だ。戦場に出る勇気だってない。
ただ待つのも共に行くのも嫌だなんて、確かに我が儘だとは思うけれど。そんなに怒ることないじゃないか。
せっかく火を焚いた部屋からさっさと出ていってしまった高杉を、年上の賄いさんに諭され追ったのは夕飯の後だった。
建屋の裏で防具を外し、ぶるぶる震えながらどこで貰ったか知れない巻き煙草を吸っている高杉を見たとたん、私はぐっと心が苦しくなった。後ろから抱きしめ、ごめんねと呟く。
「もったいねェよ。せっかく綺麗な体してんのに」
「うん、ありがとう」
「汚してねえで俺にくれよ」
「…うん、今度あげるよ」
「今度っていつだ」
「いつでもいいよ」
しがみつく私を抱え直し、まだ中に入る気がないらしい高杉は私の体温を奪うように耳元で息を吸った。雪に放られた煙草が煙よりも大きく湯気を立てる。
「あれ、おいしい?どこで貰ったの?」
「下の女郎屋」
「ふーん」
「お前は吸うなよ」
「吸わないよ」
「中も綺麗にしとけ。せっかく綺麗な体してんだから」
「さっきからそればっかだね」
私が笑うと高杉は切なそうに私を見て、お前はずっとそのままでいてくれと言った。
今思えば彼は若かった。若すぎた。それは私も同じだった。
日々生き物を殺して帰ってくる彼の腹の内を理解しきれていなかったし、彼はむしろそれが嬉しいようだった。
しかしそんな関係も、もちろん長くは続かない。
人も時間も流れ、私たちは離ればなれになった。
いつから違ったというより、元から違ったんだろう。
動乱の中に差した特別な光が、蜃気楼のように私たちを重ねていただけだ。時が経てば簡単にはぐれてしまう。
それでも私は何度でも、昇る朝日にあの日の光を探してしまうのだ。
今朝は早くから霧雨が降っていた。雨どいに溜まった水がポタポタと軒先を打つ音が聞こえる。
雨の日は眩しくないから気が楽だった。代わりに手のひらが少し引きつるけれど。
私はそっと両手を広げる。
そこにはうっすらと跡が残っている。
目に見えるものが残るというのはやっぱり幸せなことだと思った。
傷跡は私を少し引きとめて、背中を押す。
彼の傷はどうだろうか。
私は今の高杉を受け入れてやることはできない。
だって私は綺麗なままでいなきゃいけないんだ。
綺麗なままで彼を突き放し、綺麗なままで彼を嘆くのだ。誰のためともなく、ひっそりと。
京都の方は豪雨らしかった。
2011.12.27
装飾『雨音が僕の心臓を押し退ける』