たりない



「わりぃ、ほんと」

 そう言って私の肩を強く引いた彼は、ぶつけるように唇を触れ合わせると、しばらくのあいだじわじわと熱を伝染させた。
 無理な体勢から引っ張られたせいで私のブレザーは合わせがずれてしまっている。身をよじって直せば岩泉くんはもう一度「わるい」と言った。

「……平気」
「……」

 彼と初めてキスをしたのは、今から二週間前のことだ。そのときの私たちはちょうど付き合って二ヶ月が経っていて、忙しい彼の部活により一緒に帰れることも少なく、いざ二人で帰り道を歩いたとしても繋ぐことすらしない手を「またね」と振ってお別れするという、健全すぎる日々を送っていた。先に痺れを切らしたのは私の方だった。
 離れていく彼の背中に向かい「足りない!」と叫んだあの日のことはできれば忘れたい。驚いた彼の顔やその後の出来事については、いつまでも覚えていたいけれど。

 謝ることなんてないのに、と思う。
 付き合っているんだからキスくらいして当然だ。それくらい彼だってわかっているのかもしれないが、決まってする前に小さく謝るのは、きっと自分の衝動が些か乱暴で、抑えがきかないことに対する謝罪なのだろう。その証拠に、悪いと言うわりに彼の目はいつもぎらぎらとしているし、動きにだってためらいがない。フェミニストだか亭主関白だかわからないと思った。

「今日は家まで送る」
「えっ、でも、明日だって朝練あるんでしょ?」
「問題ねえよ。それより、もう試合近いし、しばらくは月曜だって一緒に帰れねーから」
「そっか。でも平気だよ。毎日学校で会えるんだし」

 実際は会えると言ったって昼休みに少し顔を合わせられるくらいのものだけれど、それでも私にとっては幸せなことだった。私が好きな岩泉くんが、私を好いてくれているなんて、いまだに信じがたいことだ。

「でも、お前足りないって言ってたじゃねえか」
「……!わ、忘れて!あのときのことは」
「忘れられるか。つか、絶対忘れねえ」
「なんでそんないじわる言うの……」

 いつも優しい岩泉くんが、こんな時は楽しそうにニヤリと笑うのだ。なんだか顔が熱くなって、そっぽを向いた。指先に何かが触れたかと思うと、一秒後には大きな手のひらに包み込まれる。こんなに男の子らしい体をしているのに、彼の生きる世界ではまだまだ足りないのだそうだ。なんて大きな世界で生きているんだろうと、目眩がする。

「俺だって足りねえよ」
「……そう、なの?」
「当たり前だろ。言わせたのは悪かったと思ってるけど、言ったからには、お前だって」
「私だって……?」
「……それなりの」
「それなりの……?」
「……いや、なんでもねえ」
「途中で照れるのやめてよ!」
「仕方ねーだろ!」

 威勢のよかった誘い文句は、途中で失速して道端に消えた。私は手に汗をかいているかもしれないと不安になったが、きっと半分は彼のものだ。

「とにかく、今日は送る」
「……わかった。じゃあ、バス降りたら、もう一回手つないでね」
「……おう」

 バス停で自然と離れた手のひらを見つめそう言うと、彼はなぜか口を尖らせて頷いた。できれば今すぐにでも抱きついて、汗のようなウールのような飾りっ気のない彼の匂いを胸いっぱいに吸い込みたい。私の衝動だって、相当なものだ。

「それなりの、責任とるよ……」

 ぽつりと呟くと、彼はしばらく伺うように私を見つめてから、とんがった眉を少し下げた。

「……やめろ」
「なんで?」
「やめろったらやめろ」
「やだよ!私今だって足りてないもん」
「ほんとに、謝っても謝り切れないようなことするぞ!」
「べつにいいよ。謝らなくったっていいし」
「ほんとにやめろボケ!」
「ボケって言う方がボケなんだよ……」

 言い合いながら、バスに乗り込む。彼は「違うわおまえがボケだ」とぶつぶつ言いながらも一つだけ空いている席に私を座らせてくれた。私の住む町へと向かうあいだ、彼は手すりを右手でぎゅっと掴んだまま何も言わなかった。怒らせてしまったのかと不安になる。

「……こっから、戻るバスある?」

 田舎の最終便は早い。ステップを降りながらおそるおそる尋ねると、先に降りた彼は「ん」と言って私に手を差し出した。ほっとして掴み返す。停留所のコンクリートは黒く濡れていた。雨が振ったのかもしれない。舗装された道路の匂いに、しめった木の葉の匂いが混じっている。胸がつんとする。

「ね、ちゃんとバスで帰ってね」
「ああ」
「お金ないとかいって走っちゃやだよ」
「ねーよ。カバン下げて走ったら腰痛める」

 最低限の街灯に照らされた二車線道路脇の歩道を、私は下を向いて、岩泉くんは前を向いて歩く。触れあった手のひらはとても心地よかったけれど、やっぱり足りないと思った。次に二人で会えるのはいつだろうか。同じ学校に通うだけで満足だと、思っているのは本当なのにこうして少し与えられればどんどん欲しくなってしまうのだから恋は困る。切なくなって強く握ると、それを合図に彼は足を止めた。

「あー!クソ!」
「ええっ、ごめん」
「ほんとだよ、もう、名前」
「……」
「あんま辛くさせんな」
「岩泉くん、辛いの?」
「辛いだろ。だってしばらく、お前にかまえねえし」
「……」
「そうじゃなくても、辛いんだよ」

 まぶたを重くしてそう言った彼を見て、男の子という生き物は本当に大変なのだなと思う。いっそのこと、全部私にぶつけてしまえばいいのに。そんなことを言ったら、きっとまた怒るのだろう。代わりに彼の腕を掴んだ。青城の白いジャージが夜の県道にぼんやりと浮いて見える。歩道の木々がさわさわと揺れる音を聞きながら、彼の顔を見上げ、少しだけ背伸びをした。
 温かい手が後頭部に周り、あっという間に噛みつかれる。初めてされるようなキスに少しだけ怖くなったけれど、それよりも受け止めたい気持ちが大きかった。長らくの後唇を離した彼は、ため息のような荒い息を吐き、私をきつく抱く。彼は「わるい」とは言わなかった。

 明日だって彼に会える。
 それなのに、彼の言う辛さが私にもわかってしまった。足りなすぎて息が苦しいほどだ。


2014.10.8

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