あの人の名前を文字として眺めるのは初めてのことだった。
黒板の緑に白く浮くそれは、俺の知らない言語のようだ。
「名字名前です」
聞き慣れた声が教室に響く。なぜだか気が重くなった。
*
俺が小学校に行っているとき彼女は中学生で、俺が中学校に行っているとき彼女は大学生だった。
それが、俺が高校に入った今、彼女は大人の顔をしてこの場所にいる。制服よりも黒いスーツを着て、色白の顔を赤く染め、彼女は俺の前に立っていた。
「教師目指してたんですね」
彼女のことは、知っている時間が長いというだけで、知っていることは少ないのだと思う。
「知りませんでした」
一軒南のはす向かいに住んでいた彼女は、長いこと俺の幼なじみとして生活の片隅に存在していた。
子どもの少ないこの街においても六歳の差というのは埋まるものではなかったけれど、喧嘩になるまでもない年齢差に母親たちは安心していたのかもしれない。歳や性別が違っても、たわいのない会話や遊びの中にこれといった不満を感じることもなく、俺たちは留守がちな互いの家を行き来し、晩御飯までの時間をともに過ごしていた。今思えば、俺の面倒を見るように親から頼まれていただけなのだろうが。
「実習に来ること、言っておこうかとも思ったんだけどね」
「……」
「まさか京治くんのクラスになるとは思わなかったし。びっくりした」
こっちの台詞だった。久しぶりの再会を無下にするわけにもいかず職員室に顔を出した俺を、彼女ははにかんだような笑顔で迎えた。スーツを着込んだ教育実習生たちは職員室の中で生徒以上に浮いている。ちらちらと向けられる視線をわずらわしく思ったが、とくにやましいこともないので気にせずに会話を続けた。
「実家戻ったんですか」
「うん。しばらくはまたあそこから……京治くん」
彼女は少し言いよどむと、抱えていた名簿をぎゅっと抱きしめて俺の目を見る。
「なんですか?」
「大きくなったねえ」
「……歳がですか?背が?」
「どっちも。追い抜かれちゃったな」
中学の時点ですでに、彼女の背丈なんて追い抜いていたはずだ。しかしその頃になれば隣に並ぶ機会もだいぶ減り、彼女が家を出たことも手伝い、互いの成長を確かめ合うような関係ではなくなっていた。親への反抗期も記憶にないような自分だが、彼女へ対する気恥ずかしさは人並みに感じていたのを覚えている。ただでさえ素っ気ないと咎められるような顔つきだ。俺は俺で話しかけ難かったのかもしれない。
「これ、持っていきましょうか」
教科室へと移動させるらしい荷物を指して聞けば、彼女はくすくすと笑いながら、名簿の裏で顔の半分を隠した。
「敬語……」
「使わない方がいいですか?」
「ううん」
恥ずかしそうに首を振る様子を見て、自分の中にやましい気持ちが本当にないのかどうか不安になる。言っているこっちもこそばゆいのだから、聞いている彼女もそうなのだろう。手持無沙汰になった俺は昔から直らないくせ毛を指で触り、「じゃあ」と言って頭を下げた。
手を振る彼女はとても教師には見えず、この先やっかいな高校生たちを相手にやっていけるのかと不安になった。彼女は基本的にしっかりしているが、たまに歳下の俺を心配させるような呑気さがある。
が、そんな俺の不安は杞憂に終わった。
人懐っこい彼女は数日もしないうちに生徒らと打ち解け、数人いる教育実習生の中でもとりわけ人気が高いようだった。
ほっとした反面、少しつまらなく感じる。そして、また気が重くなった。日常の中で気持ちが揺さぶられることがあまり好きではない。一つ上の破天荒な先輩を、肉体で物を考えるとんでも生物と認識しているわりに、大きく分ければ自分もそちら側の人間なのだと実感する。うまくいくか、いかないか。気持ちがいいか、よくないか。そういう単純なのがいい。歳上の幼なじみに対する複雑で曖昧で割り切れない感情なんていうのは、自分の日常に必要なものではない。
「京治くん」
聞き慣れた声は俺の心に少しずつ重りを足していく。
「京治くんさ、これ教卓の上に、」
「先生」
廊下に響く俺の声は、人がいないせいかやけに大きく聞こえた。
「名前じゃなくて、名字で呼んでくれませんか」
「……」
「教師と生徒でしょう」
「うん……そうだね。ごめん」
思えば、昔っから俺は彼女と対等に話している。彼女が俺を子ども扱いしないせいだ。性格も食の好みも年寄りじみていて可愛げがないと言う親の言葉に、彼女はいつも「そこがいいの」と笑いながら口元を手の甲で覆っていた。照れているときの癖だ。未だに治らない、彼女の癖。
「俺もう、部活行くんで」
「そっか。頑張ってね」
目をそらし、エナメルバッグを抱え直す。昔のことばかり思い出して、今の彼女をうまく見つめることができない。きっと思っている以上に、二人だけの記憶が大切だったせいだ。彼女はもう大人だ。恋人だっていておかしくない。俺に向いていた、年齢分け隔てないやわらかな愛情が、今は職業化され不特定多数の同世代に向けられている。彼女の長所をいかんなく発揮できる場所を見つけられて良かったと、喜ぶことができなかった。
部活着に着替え、体育館の床を踏む。キュッと鳴った靴になんだかほっとして、ゆっくりと息を吸い込んだ。気持ちを切り替えようと、力任せにボールを床に打ちつける。
前にいたエースが、勢いよく振り向いて目を丸くした。
「え、俺!?」
「は、なにが……」
「なんか赤葦今日、イライラしてねえ?」
「…………そんなことないですよ。木兎さん今日まだ何もしてないじゃないですか」
「だよな。ん?……まあいいや。おしゃー!赤葦アレやるぞアレ!」
彼はそう叫ぶと、アレが何だかの説明をする前に体育倉庫へと走っていってしまった。いつもは鈍感力をフルに発揮しているのに、こんな時だけ敏感になるのはやめてほしい。どうせなら本当に俺を振り回している時に省みてほしいものだか、そんな時彼はだいたい前だけを見ている。大変に思うこともあるが、前を見る彼の姿勢は好きだ。
なんだか力が抜け、重く溜まっていた気持ちがどこかへ抜けていく。やはり自分はこちら側の人間だ。木兎さんの域に達するには、まだまだかかりそうだが。
*
「……先生」
「わあ!!」
「なにしてるんですか」
部活から帰宅するのはいつも日が暮れた後だ。そんな薄暗い住宅街の、家の勝手口付近に、怪しい影を見つけ背後に回った。幼い頃ならまだしも、成人した彼女が庭から敷地を跨ぐのは見た目上あまりよろしくないと思う。
「け……赤葦くん。こ、これね。おばさんに渡そうと思って」
「……ああ。どうも」
彼女はそう言って菓子折りの紙袋を手渡した。一人暮らし先の銘菓か何かだろう。律儀なわりに、玄関から来ないのが彼女らしいところだ。
「ここの駐車場、家建っちゃったんだね」
彼女に言われ、脇道の向こうを見る。昔よく二人して暇を潰した場所だった。特にいい思い出というわけでもないが、なくなってから思い出すと貴重だったように感じるから不思議だ。俺はそこにあった白線や石段やよれたフェンスを思い返し、珍しく少し、感傷的な気分になった。
「明日……」
「ん?」
「休みだったら、山田屋スーパー行く?」
「……なにしに?」
「別に。アイス買いに?」
気付けばそう提案していた。まじまじと見つめ返され、薄闇の中で目を合わせる。
「京治くん。敬語……」
「使った方がいい?」
彼女は手の甲で口元を隠し、ゆるやかに首を振った。外が暗くて良かったと思う。俺にこんなわかりやすい癖はないはずだが、彼女には何か知られているかもしれない。
「行く。安くてたくさん入った、コーンアイス買いに行こう」
彼女は昔っから、安くてたくさん入った美味しくないアイスが好きだ。
「あのあまり美味しくないやつか」
「美味しいよ。なんかシナシナしてて」
「そう?」
いつもうるさいお隣の犬は吠えていない。彼女のことを覚えているのかもしれない。
昔に戻ったようだったけれど、昔とは違う彼女がそこにいたので、なんだか無性に触れたくなってしまった。
2014.8.14