守備的MF




 赤茶けた瞳が薄闇の下でちらちらと光っている。会いたくない人物に会ってしまった。おそらく偶然ではないのだろうが。

「偶然だね」
「……そうですね」
「なんてね。待ち伏せしてたんだ」
「……そうでしょうね」

 今の彼にとって池袋はホームグラウンドではないはずだ。彼がこの街に来る時、それは大抵何か具体的な悪意に突き動かされてのことである。今回の標的はどうやら私のようだった。

「あいつとはどう? 仲良くやってるのかな?」
「折原さんには、関係ないじゃないですか」
「関係ない? 俺は人類すべてと関係を持ちたいし、中でも君との関係はとても深いものだと思ってるけど」

 そう言って一歩近付くと、彼は私の顔に手を伸ばす。指先二本で目尻のあたりをなぞられ、ぞわりと鳥肌が立った。見えない悪意に肌を汚されている気がして振り払う。

「ああ、一応言うけど、関係って言っても君個人とどうこうなりたいと思ってるわけじゃないから」
「……」
「安心して」

 言葉とは裏腹に軽薄な唇を耳元に寄せると、彼は愛を囁くような甘い響きで、私の全てを侮辱しにかかる。押し返そうと両手を伸ばすが、逆に掴まれ手の甲を壁へと叩きつけられた。

「……っ」
「そもそも、これは単なるあいつへの嫌がらせだから。君個人の感情とか感覚とか、そういうのはこの際どうだっていいんだ。だから痛かったらごめんね」

 打って変わってビジネスライクな口調で言うと「ああ、それとも」と首を傾げ、だらしない感じで笑う。嘲りと蔑みを含ませた嫌な笑い方だ。

「痛いのには、慣れてるとか?」

 強く手首を握り締められ顔がゆがむ。彼はらしくないぎらぎらとした顔で私を見ているが、これは私に向けられたものではなく、今ここにいない彼への対抗意識なのだろう。腹いせに私に当たるなんて、彼は人のことを藁人形か何かだと思っているのだろうか。性的興奮なんてちっとも感じていないくせに、胸元に手を伸ばしてくるのが不快だ。

「そ、れ以上触ったら……舌噛みちぎって死にますよ」
「あっはは、そんなことしたらあいつは悲しむだろうねえ! 俺は別にそれでも構わないけど」
「……」
「意地に任せて愛する人を傷つけるだなんて、酷く利己的だよ。死ぬなんて軽々しく言うものじゃないと思うけど。ま、しょせん君の愛はその程度だったってことだね。俺は嫌だな、大好きな人間たちとの離別なんて、最も望まないところだよ」

 そうして不機嫌そうに眉を寄せると、怒りを誤魔化すように彼は無理やり口角を上げた。

「だから俺、死にたくないんだよね」

 知ったことか。私の話と見せかけた彼の自分語りはいつまで続くのか。裏で手を回したり、周囲の人間に八つ当たりしていないで、嫌いなら嫌いと本人に直接言えばいい。鬱憤をぶつけるように乱暴に私の肩を掴んだ彼に、逃げられないと唇を噛んだ瞬間、死にたくないと言った男の体が宙に浮いたのを見た。

「……っ!」

 赤い大きな弾丸のようなものが、彼の脇腹へとめり込んで落ちる。聞いたことのない鈍い音がして、私と対面していた彼の体は路地の奥まで飛ばされた。そこらのポリバケツや室外機が派手な炸裂音を立て散らばって、折原臨也と共に残骸になる。シュウシュウと鳴っている何かが白い泡を撒き散らしていることに気付き、慌てて口を塞いだ。どうやら赤い弾丸は消化器のようだった。

「いざやぁてめぇぇえ……ッ!」

 けぶる視界を裂くように響いた怒号は私のよく知るものだ。
 ゆらゆらと近づいて来た長身のバーテン服は、私の前を通り過ぎ、地べたに這いつくばる黒いコートの横で止まる。止めに入る暇もなく、彼はトドメとばかりに消火栓のポールを振り上げた。硬質な音が路地裏に響き渡り、的であったコートが地面へと打ち突けられる。いつの間に脱いだのか、間一髪で躱した折原はその脇をすり抜けて背後へと回っていた。すぐさま繰り出された振り返りざまの二撃目をかろうじて避け、そのままよろよろと壁に寄りかかる。

「これさあ、右肘、完全に折れてるんだけど……っ」

 胴体を庇うよう曲げられた右腕を、左手で力なく支えながら、折原は小さくえづいた。肋骨も折れているのかもしれない。

「そりゃ良かった……さっきので死んでたら名前に汚えもん見せちまうとこだったぜ」
「そうだね。暴力なんて汚いもので解決するのは良くない」
「汚ぇのはてめえだ……!!」

 踵を返す折原と同時に、地面を蹴った静雄に、慌てて声をかける。折原に腹が立つのは私も同じだが、彼をむざむざ人殺しにするわけにはいかない。

「静雄!」
「……っ、…………あー! くそっ!!」

 静雄は逃げる獲物を追う動物の本能と戦うように数秒、体をわなわなと震えるさせると、大きく叫んでから無理矢理こちらを向いた。

「大丈夫だから、落ち着いて」
「落ち着けるかよ!あのノミ蟲、どこまでふざけた真似しやがる……!」

 静雄を怒らせることが目的だったのなら、彼の作戦は見事と言える。行き場のない怒りを私にぶつけてしまうことを恐れてか、そっぽを向いたままぶつぶつと殺意を示している静雄にもう一度「大丈夫だよ」と言った。

「……大丈夫じゃねえ!」
「でも、どこも怪我とかしてないし」
「触られてただろうが。消毒だ」
「消毒って、どこ行くの?」
「薬局」
「薬局!?」
「マカロン」
「マキロン?」
「それだ!」

 怒りを鎮めるのは無理だとしても、もう少し落ち着いてほしい。わけのわからないことを決意しながら、迷いなく大通りへと足を進める静雄を引き止めようと、手足をばたつかせた。イメージだけで処置法を決めるのは静雄の悪い癖だ。

「そ、それより! 早く着替えたいな」
「あ? 着替え?」
「見てよこれ、粉まみれ」

 消火剤にまみれたスカートを手で広げ必死に訴えかけると、彼はやっと足を止め振り返った。

「悪い、汚しちまったな」
「それはいいんだけど、さすがにこれで街をうろつくのは憚られるというか……」
「そうだな。どこかで着替えて、シャワーでも浴びるか」

 天然なのか大胆なのか、平気でそんなことを口にする静雄と私は、まだそのような関係ではない。折原が知ったら涙を流して笑うかもしれないが、彼は必要以上に私に触れなかった。理由なんて考えなくてもわかる。

「どこかって、静雄」
「どこかって……どこだろうな」

 腕を組んだ静雄の目の先には、すでにホテルの看板がロックオンされていた。どこにでもある、安っぽいラブホテルのネオン線がビルの谷間で光っている。彼は取り憑かれたように数秒、その瞬きを眺めてから、いたずら現場を押さえられた犬のような顔で振り返った。思ったより強気でないことを感じとり、私も困ってしまう。

「あ、の。とにかくこれ、気持ち悪くて……」
「そうだよな、そうだと思うぜ」
「できれば、脱ぎたくて」
「ああ、違いねぇ。できれば脱ぎたいに違いねえ」

 うんうんと頷く静雄は困惑を通り越し、自分に苛々し始めているようだ。相手が自分だろうと、キレたら大変なことになるのはうけあいである。私はこれ以上街の破壊活動を促さないためにも、乙女の恥じらいというものを捨てることに決めた。

「……少し、休んでいってもいいかな」
「休む? 座るか?」
「そうじゃなくて!!」

 思わず声を張ると、彼はびくりと眉を上げ「ホテル、行くのか?」と聞いた。照れ屋なくせにあけすけである。

「うん。静雄がよければ」
「俺は、いい」
「ほんと?」
「本当」

 こくりと頷いた静雄は街中から恐れられる喧嘩人形とは思えない素直な顔をしていて、何故か私の方が罪悪感を感じるほどだった。連れ込んでいるのは、果たしてどちらか。
 彼の大きな手が、私の掌をわしりと掴む。手をつなぐと呼べるほど綺麗な形ではなかったが、指を包み込む感触があまりに優しくて、驚いた。

「飯も、中で食えんのか?」
「静雄、まさかのご飯の心配?」
「いや……なんか、勝手がわからなくって」
「あはは、うん」

 この等身大の青年の、優しい存在になりたくて、この街に暮らしているのだ。
 池袋に夜が来る。

2014.4.5

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