九死と一生




『後方四時より三体接近』
 オペレーターの声が妙に遠く聞こえた。
 右肩亀裂部から漏れ続けるトリオンが視界を遮ってしょうがない。あわてて銃を握りなおしたが時すでに遅く、次の瞬間にはモールモッドのブレードに肘から下を削ぎ落とされていた。宙を舞った手首が地面に落ちるより早く、後ろへ飛び退いたのだが、態勢を立て直したところで銃を構えるには腕が足りない。
 手のひらで作ったアステロイドの弾数は二十四。とても三体倒しきれる威力はなかった。序盤で負った傷により、トリオンを消費しすぎている。
「名前さん!」
 路地の向こうから仲間の声が聞こえたが、返事をする間もなく腹にブレードが突き刺さった。供給器官よりは少し下だが時間の問題だろう。生身のような痛覚がなくとも、トリオン体を維持できなくなる瞬間というのが私は嫌いだった。何度も死を味わっているようなものだ。胸のあたりがすうすうとして、ありもしない胃の中身を吐きそうになる。
 霞む視界の先には様々な形のトリオン兵が、三体どころではなく数十と連なっていた。オペレーターの戸惑う声が聞こえてくる。二年前の大規模侵攻とまではいかないが、今日の警戒区域内はずいぶんと立て込んでいるようだった。
「大丈夫か」
 突如後ろから聞こえた声に、視線だけを上げる。
 碧い隊員服を来た青年が、私を見下ろしながら手のひらの中でトリガーをくるくると回していた。見たことのない真っ黒なそれは、数年前噂になった黒トリガーだろうと直感する。ならばこの人はS級隊員として名を馳せる、迅悠一だ。その名前も噂では良く聞くが、本部に顔を出すことの少ない引きこもり隊員の私には目にする機会のない人物だった。
 彼は私に突き立てられているカマキリのような刃を一刀で斬り落とすと、そのまま目にもとまらぬ速さでモールモッドを二つに裂いた。彼が大きくトリガーを振ったようには見えなかったが、トリオン兵は確かに機能を停止していたし、それだけでなく間近に迫った二体までもいつの間にか目玉を割られている。何が起こったのか解らなかったが、彼が横に立った時わずかに風を感じた気がした。
 不思議な色で刀身をゆらめかす迅悠一は自分と同じ生き物には思えなかった。
 背後からふいに現れた無数のハウンド弾が、流れ星のように私の顔の横を飛び去って行く。私は他人事のように、彼を含んだその情景を綺麗だな、と思った。
「おっ、ありゃ公平だ。太刀川隊も近くにいるみたいだな」
「……」
「今日は呼ばれてないはずなんだけどな、太刀川さん単位大丈夫なのか」
 彼は独り言のようにそう言って、再び私に目を向ける。
「区域内で遊んでた子ら、逃がしてくれたんだって?」
 声が出ないのでこくりと頷いて、残った左手で区域の外を指さした。
「ご苦労さん。少し休んでな」
 サングラス越しでもわかる優しげな瞳がニッと笑い、彼の足が地面を蹴る。私の緊急脱出装置が働いたのはそれとほぼ同時だった。
 身体が浮く寸前、揺らめく刀身が静かに地面へ染み込んでいくのを私は確かに見た。やはりそれはとても綺麗なものだった。



 そうして彼と出会ってから、もう二年が経つ。
 その間に私が成長したかどうかは怪しいが、当たり障りのない性格と容姿、そして偶然続いた市民の救出活動が幸いしてか、近ごろは広報係のようなものを担当することが多くなっていた。表舞台は嵐山隊だが、数を要する地味な地域活動となれば私の出番だ。根付メディア対策室長に言われた「親しみやすい庶民的な風貌」は、褒め言葉だと前向きに受け止めている。
 玉狛に入りたいという理想はあるが、今の立ち位置を軽んじているわけではない。命をかける遠征隊などに比べればささやかな仕事かもしれないが、市民に慕われているという自負は少なからずあった。だてに小さな頃から町内会で豚汁を作っているわけではない。
「なんていうか、損だか得だかわからない性格だよな。おまえ」
「太刀川さん、授業出なくていいんですか。留年しても知りませんよ」
「なんかおまえ迅と俺で態度違くないか?」
 人もまばらな昼前の学食できつねうどんを啜っているのは、この大学の先輩であり、我らがボーダーランク戦においてソロ一位を誇る太刀川さんだ。その肩書きは組織の中で有無を言わさぬ威厳を持つが、だからといって単位が免除されるわけではないのが学生隊員の辛いところだった。
「そういえば、名字と迅ってどんな関係なんだ?」
 おもむろに発された疑問に、簡潔に答えようとしたが言葉が出てこない。そういえば今現在、私と彼はどのような関係なのだろう。
「どんな……ってほどの関係はありませんよ」
「付き合ってんのかと思った」
「まさか……!」
 確かに私から告白のようなものはしたが、もちろん付き合ってなどいない。かといってはっきりと振られたわけでもなかった、気がする。彼は少し照れたあと私にマカロンをふるまい、本部からの呼び出しにより玉狛郊外へと消えていったのだった。
「しいて言えば……部屋で一緒にお菓子を食べる仲?」
「なんだそれ……小学生?」
 紙ナプキンで口を拭く太刀川さんの、哀れみを帯びた視線を受け悲しい気持ちになった。迅さんは優しいからああやって私を突き放さないでいてくれるが、本当は応えを告げる気にもならないほど迷惑なのかもしれない。
「おまえさ、迅に夢見すぎなんだよ。たぶん」
「……そんなこと」
「よく考えろ、暇がありゃ女の尻撫で回してるような奴だぞ? たしかに実力は俺といい勝負だけど、プライベートまで出来る男とは限らないだろ」
「……そりゃ、そういう場合もあるけど」
 意図せず太刀川さんの顔をチラリと見れば、彼は「俺のことはいいんだよ」と言って椅子の背にふんぞり返った。食堂の安っぽい椅子がぎしりと軋む。
「じゃあ、どうすればいいんですか」
「そんなの俺が知ったこっちゃない。とにかくおまえは、俺に地歴のノートをコピーしてくれたらいいと思う」
「そっちの方が知ったこっちゃないですよ……」
「遠征行ってたんだからしょうがないだろ」
 完全オフモードの太刀川さんに、私が迅さんに対して抱く、ボーダーとしての羨望と異性への恋慕の入り混じった複雑な感情を理解してもらうのは不可能なようだった。
「そういえばあいつ、ランク戦復帰したんだよ」
「はい。……風刃、手放しちゃったんですね」
「あいつもいろいろ考えてるみたいだけど、難儀なやつだよなぁ。まあ俺としては嬉しい限りだ」
「いろいろ、ですか」
 彼の行動はいつだって私の理解が及ばないが、あの優しい目で成される「いろいろ」とはたぶんとても大切なことなんだと思う。私は、今思えば風刃が生み出していたのだろう彼の美しい太刀筋を思い出し、それがもう見られないことを少し残念に思いながらも、迅さんらしいと頷いた。彼が拘るのは、いつも物ではなく心だ。
「また、なんか夢見がちなこと考えてるだろ」
「太刀川さん、うるさい」
 地歴のノートは風間さんが先だ。


2014.2.6

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