藁をほうる



「開けなよ」
「あ、開けない」

 鏡に映る自分の姿は、どうしようもなく滑稽だった。

「……開けろ」
「……! ぜったい開けない!」

 彼にしては低い声が扉ごしに聞こえ、決意を新たにする。今対面したら、彼は私を叩くか抓るか、ナイフを突きつけるかするだろう。

「臨也、人間が好きとか言いながらちょくちょく普通に短気だからいや!」
「短気……? 人のパソコンおじゃんにしといて、どの口がそんなこと言う?」
「それは、ごめんって!」
「どれだけ大事なデータ入ってたと思ってんの? 下手すりゃ裁判沙汰だよ」

 大きなため息をつく彼の職業を知らないわけではない。それはまさに蓄えたメモリーを命綱にして進む綱渡りのようなものだった。

「……バ、バックアップは?」
「そんなの、限界がある」

 縋るつもりで掴んだ藁は案の定用をなさない。これはいよいよ命の危機かもしれない。

「とにかく開けろ」
「…………やだ」
「そう。出てきた時、わかってるだろうね?」

 私を絶望へと追いやる彼の言葉に、思わずよろめき壁に手をついた。高級なバスマットが足の裏をくすぐり、追い打ちをかけられる。この家の財源はあのおそらくPCなのだ。自分でも、状況を着々と悪化させていることはわかっていた。閉じこもったところで何が解決するわけでもないし、なによりここは彼の家だ。私の無駄な行動が彼の怒りのレベルを一段引き上げてしまったことは言うまでもない。


 すべては十数分前。
 臨也のノートパソコンのキーボードに、コーヒーをまるまる一杯ぶちまけたところから始まった。蒼白になっている私の横で、見開いた目をすっと細めた彼の表情はあまりに冷たく、背筋が凍った。今思えばタオルか何かを取りに行こうとしただけなのかもしれない。椅子を引きガタリと立ち上がったその音と動作に防衛本能が働いた私は、反射的に逃げ出してしまったのだった。
「あ、こら!」と言う臨也の声を無視して、洗面所へと飛び込んだ。すぐさまスリッパを響かせ近づいてきた、怒りを含んだ男の気配が恐ろしく、思わずドアノブの鍵を捻る。綺麗な白い壁の向こうから「ありえない……」という彼の呟きが聞こえた。自分の血迷った行動を後悔する暇もなく、彼は扉をドンと叩き、開けろと命令したのだが……私が断固拒否したことにより、このどうしようもない押し問答が始まった。

 怒られることはもちろんとして、臨也の常態である貼り付けたような胡散臭い笑顔に慣れてしまっている私は、こんな時に垣間見える、彼の素の態度が怖くて仕方なかった。まるで普通のとんがった兄ちゃんだ。大体、どんな人間をも愛せるなどと豪語するくらいなら、これくらいの失態で怒らないでほしい。開き直り甚だしいのはわかっているが、さあ私の驚異的な間抜けさを愛せ! と逆ギレしたい気分だった。

「今開ければ、許してやる」
「…………」

 ふいに聞こえた悪魔の言葉に、思わず鍵へ手を延ばしそうになるが、慌てて首をふった。この言い回しをした人で、本当に相手を許した人など人類史上一人としていない。
 思えば、今日の彼は始めから機嫌が良くなかった。表面上はいつもとそう変わらなかったが、言葉の端々、動きのそこここに散りばめられたどことない雑さは、彼と長い時間を共にしている者なら気付くものだ。何があったかなど知る由も無いが、彼にとっても私にとっても、このアクシデントはめっぽうタイミングが悪かったのだ。

「だいたい名前、俺がそんなに怒ってると思う?」
「うん」
「……俺が怒ってるとしたら、パソコン云々じゃなくて、君のその態度にだよ」
「嘘だ、最初から怒ってた……!」
「あれは怒ってたんじゃなくて呆れてたんだよ。それからさすがに少しショックでね。仕事上一番使い勝手のいいパソコンだったから。でも悪気があってやったことじゃないし、君が良識ある大人の態度を示せばそれで良かったんだよ。それなのに、謝りもせずそんなとこに籠城してなんのつもり? 子供か? 早く開けろよ」
「あ、あやまった! あやまったよ最初に!」
「もう一度謝ろうか。目を見てちゃんと」
「……声が怖いからいや」
「……ふざけるなよ?」

 やはり怒っている。怒るのは当たり前だし、謝るのも当然だ。しかしどうにも面と向かう勇気が出ない。扉を開ければここぞとばかりに豹変し、何かとても酷いことをされる可能性がある。折原臨也は人を後悔させるのがとてつもなく上手いのだ。私の想像できない彼の仕返しを思い、涙が出そうだった。

「臨也……私人間だよね?」
「そうだねえ、人間だねえ」
「折原臨也は、人間のどんな行動も笑って楽しめる変態だよね?」
「……変態は余計だけど、まあ、拷問師を間近で観察するために自ら拉致監禁されるくらいには自己犠牲を厭わない人間だよ」
「……」
「なに引いてんの? 自分が聞いたんだろ」
「うん……。つまりさ、私の類稀なるおっちょこちょいを間近で観察できた代償と思って、今日のことは水に流そうよ」
「……」

 納得してくれたのだろうか。
 それきり何も言わなくなった彼にいくばくかの希望を馳せていると、なにやら聞き慣れない音がして首をかしげた。カチャカチャ、カチャカチャと、それは鍵穴から鳴っている。心臓に響くような音だ。

「……臨也、何やってるの?」
「……」

 無言だった。鋭く擦れる金具の音だけが無情にも響く。何をやっているかなど聞かなくてもわかった。血の気が引いていく。

「こんな、室内の鍵なんてね」

 そう言ったかと思うと、小気味良い音を立てて鍵が回った。私は自分にこんな能力が備わっていたのか、と驚くような反応速度で再び鍵をかけた。

「……あのさあ、ふざけてる?」

 扉の向こうで彼が静かに呟く。それなりの労力をかけピッキングした鍵穴があっという間に振り出しに戻ったのだから怒って当然だ。人並みの、平凡な苛立ちが彼の声に宿っていて、足の力が抜けそうになった。無駄に楽しそうじゃない折原臨也なんて見たくも聞きたくもない。怖すぎる。
 こんなことなら自分から投降して少しでも心証を良くしようかと迷っているうちに、再び金属音が鳴った。無駄な攻防は持久戦にもつれ込もうとしていた。私は半分パニックになりながら鍵のツマミを押さえつける。どんな方法を使っているかわからないが、しかし鍵はまた勢いよく回り、そして今度は捻っても元に戻らなかった。なんということだ。もう終わりだ。嫌だ。絶対に心身にトラウマを負わされる。
 私は死のようなものを覚悟して、扉から離れた。

「……ほんと、手間取らせるよね」

 ここへ入った時から薄々気付いてはいたが、どこかへ逃げ込むということは、それ以上の逃げ場を失うということに他ならない。自ら虎穴に入り込み、虎を招き入れてしまうなんて失態どころの騒ぎではなかった。かちゃりと扉が開き、臨也の黒い袖が覗く。とっさに勢いよく後ずさった私は、バスタオルかけに足をぶつけながらも奥の壁へと張り付いた。水周りにしては充分すぎるほど広いこの部屋も、威圧的な男と向き合うにしては狭い。彼は洗面所に踏み入ると後ろ手で扉を閉め、何故か鍵までかけた。私の精神を圧迫する意気込みが体中から溢れていた。

「い、いざや」
「……」

 臨也は無言で首をかたむける。私の目を見て、ゆっくりと息を吐いた。その顔は笑顔と言うにはあまりに非友好的で、口端は申し訳程度に上げられていたが、目は全く笑っていなかった。ごくりと息を呑む。

「こ、ここないで、まって」
「……解ってるだろうけど、君をここまで追い詰めたのは君自身だよ」
「…………」
「だから、俺にこれから酷いことをされるとしても、俺のことは恨まないでほしい」
「そ、そんな」

 来ないでと制す私を無視して、臨也は一歩二歩と歩みを進める。全体として白いこの空間で、彼の黒さは悪魔的だった。あと一歩で手が届く、という距離まで迫られたところで、私はとっさにそこらにある物体を掴み上げ、彼へと振り上げた。私の反射神経は少し自重を見せた方がいいと思う。

「いって、おい、いい加減に」

 暴れる私を覆いこむように間合いを詰めた臨也に、手首を掴まれてびくりと肩が跳ねる。ぶんぶんと腕を振ったが離してもらえず、それどころかスリッパで足を踏まれ親指の爪が痛くなった。とても成人した男女のコミュニケーションとは思えず、昔した弟との喧嘩を思い出す。

「いたい!」
「うるさいな。謝らないともっと痛くするよ」
「ごめん、ごめんなさい……!」
「何に対しての謝罪?」
「パソコンを壊して……」
「……」
「それから、無駄な足掻きをして、お手間を取らせ」
「……」
「勢いまかせにシャンプーのボトルで殴ってすみませんでした……」

 涙声になりながらそこまで言うと、臨也は踏んでいた足を退け、しかし今度は両手で私の手首を押さえつけた。

「……それに対して、君はどういう償いをするの?」
「つぐない……」
「謝って済むならヤクザはいらないよね?」
「……っ、だって、どうすれは」
「なになに? 俺に決めさせてくれるの?」
「あ、いや」
「そうだなあー」
「待って」
「弁償できる額なんてたかがしれてるだろうしねえ」

 たたみかけるように言葉を発する彼は、打って変わって楽しそうだ。眉は相変わらず不機嫌に歪められているが、全体の怒気はゆるみ、口調は愉悦を含んでいる。

「……ねえ、本当はバックアップ完璧なんじゃないの!?」
「それが反省する態度?」
「うっ……」
「まあここで、ベタにいかがわしい要求とかしてもいいんだけどさ」
「い、いかがわしいって……」

 彼はそう言って片手の拘束を解くと、その手を壁にもっていき私との距離を縮めた。明らかに、先ほどの兄妹喧嘩もどきの時とは雰囲気を変えている。綺麗な形の輪郭が視線の少し上に迫り、私は下を向いた。

「女の子の誠意ってやつだよ。君は男に許しを乞う方法として、どんなことが思いつく?」
「…………」
「言ってみなよ。言わないと、俺が勝手に決めるよ?」
「……そ、れは」
「ん?」

 至近距離から見下ろされるプレッシャーに、私の頭は機能低下の一途を辿る。

「……あ、あの……身体的、リラクゼーションというか」
「ふうん? それ、どこまでしてくれるの?」
「知らない……か、肩もんだり、料理作ったりとか、それくらいまでです」
「ハハ、随分安く見積もられたもんだね。それとも自己評価が異常に高いのかな?」

 臨也はそう言ってさらに体を寄せたため、接触を避けようとした私の背中は壁にめり込んでしまいそうだった。からかわれているのか、本気で何かを求められているのかも、もうわからない。

「そんな顔するなよ……。泣くの?」

 真綿で首を締めるような優しい声で問われ、ぎゅっと目を閉じた。彼の手のひらが頬へ添い、親指が一度、二度、唇の上を往復する。
 ゆっくりと丁寧に、三度滑ろうとした時、耐えかねてハア、と息を漏らしてしまった。それを絡め取るように隙間から中指を入れられ、やわやわと、浅いところをなぞられる。唾液がうっすらと指につくのを感じて、頭がくらくらした。彼はそのまま首筋へと手を下ろしていく。金縛りにあったように体の自由が効かない。臨也が今何をしたいのかがはっきりとわかってしまい、ますます肩に力が入った。

「こんなふうに迫るのも、大人げないよねえ」
「ん……っ」
「でも、名前が無駄に抗って、俺を煽るから」

 煽ってなんかいないのを、わかっていてそんなふうに言う臨也は性格が悪い。性格が悪い人のパソコンを壊してしまった私が悪いのだから、やはり自分を責めるしかないのかもしれない。しかし、彼はなぜいつになく興奮しているのか。

「なんでそんな楽しそうなの……」
「負い目のある女の子をじわじわ追い詰めることに、興奮しない男なんていないよ」
「サイコパス!」
「至って健全だって」
「やっ」
「嫌?」

 こくこくと頷くと、臨也は「はあー」と長く息を吐き、私の肩に額を乗せた。

「俺ムリヤリとかって、あんまり好きじゃないよ」

 じゃあしないでほしい。彼がずっと右手を掴んだままなので、手のひらがぴりぴりとしびれてきた。耳たぶに髪の毛があたりくすぐったい。普段届くことのない高そうなシャンプーの香りがして、感じたくもない彼の生活感を感じてしまう。嫌だ。私の中の折原臨也は風呂なんて入らないし食事もしないしもちろん眠りもしない。動力不明のおもちゃのようにカラカラと動き回る、虚構の極みのようなものだ。

「なんか責任感じるし、あとあと面倒くさいしさあ」
「……」
「でも、ちょっといま、自分でもどうしようもないかも。疲れてるし、元から苛々してたってのもある」
「……」
「名前が馬鹿のくせに女の形してるのが悪い」

 無茶苦茶な罪を着せられた私は、どうやら彼に身体的リラクゼーションを提供しなければならないようだ。

「わかったらほら、おとなしく力抜いて。痛くしないから」

 勝手な男の定型文を吐くと、この場でことを進めるつもりなのか、臨也は私の腰に手を回し首筋に鼻先を寄せる。普段せわしなく動いている口をぱたりと閉じた彼は、自分の欲求に流されることを決めたようだった。このままされるがまま耐えたとして、彼はどこまでするつもりだろうか。腹を撫でる彼の指がこれから進む先を、嫌でも想像してしまう。全身に震えが走って、顔が馬鹿みたいに熱くなった。

「……なんだ、名前もたまってた?」
「ちが、ちがう、ちがうの」
「いいよ照れなくて。お互い大人なんだから」

 解釈違いを正そうにもこの男は人の話を聞く気がない。いつもそうだ。間違いは初めから決まっていて、わざとそこへ誘導するペテン師なのだ。やだ、の、や、を言おうとした口に、噛みつかれて舌が絡んだ。

「ん、ぅ……!」

 深いキスは、彼の人間味のさいたるものだった。折原臨也は人間で、男で、柔らかい内側をした温かな生き物だ。こうして触れればなんら他の人間と変わりはない。それなのにどうしてこんな生き方を選んでしまったんだろう。悲劇としか言いようがなかった。持って生まれたものの無駄遣いだ。こんなわけのわからない気持ちで、セックスなんてできるわけがない。

「臨也としたら、自我が崩壊する……ぅ……」
「……失礼だな。自分で言うのもなんだけど、俺は見た目だって悪くないし下手くそでもないつもりだよ」
「補ってあまりある性格の悪さが問題だよう……っ」
「パニックなのか冷静なのかどっちかにしろよ。腹立つな」

 今日気づいたのは、私は臨也を怒らせるのがわりと得意ということだった。しかしその特技が私にもたらすものは彼のこういった仕返しなのだから、全く役に立たない能力である。

「とにかく、さあ。ちょっと可愛くしててよ」

 半ば苛立ったようにそう言った臨也は、再び首元に顔を伏せる。

 私は自我が崩壊してしまう前にと、リンスのボトルを掴み上げ、勢いよく彼の後頭部へ振り下ろした。


2014.1.22

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