彼の方は見ない




 ちょうどいい量の雨が降っている。
 重すぎず軽すぎず、うるさすぎず静かすぎない量の水が傘に当たっていた。ぱたぱたと鳴る一定のリズムに心が穏やかになるが、そのうちだんだんと悲しくなった。水気を含んだビニール傘と、アスファルトの匂いが混じりあって鼻をくすぐる。それはなんだか耐えがたいほどに懐かしく、私の中の無数の雨の記憶を刺激した。
 見上げた空は透明な膜に遮られ、ぽろぽろと水滴を零す。薄まった絵の具のような灰色だ。今日の街は色を失っている。

「お嬢さん濡れちまうよ」

 あおぎ見た傘の端っこから、雨が落っこちてきて冷たい。背後から聞こえた男の声に応えるよう下を向いた。じゃり、と砂の鳴る音がして、視界の隅に黒いコートがうつり込む。高そうで、古びたような、キナ臭いコートだ。

「何してるんですか、西園さん」
「なんにも。今日は非番」
「戻ってあげないと、小林くんさぼりになっちゃいますよ」
「いーんだよ。アイツまじめすぎんから、たまにゃ息抜きさしてあげないと」

 声の響きからして、彼は傘をさしていないようだった。私は下を向いたまま、じっと雨の音に耳を傾ける。彼の方を見たくなかった。

「……風邪ひきますよ」
「俺濡れないから」
「意味わかんない」

 しかしありえない話でもないと思った。彼は存在が非現実的だから、雨なんていうものとは交わらないのかもしれない。足元の水たまりはさっきよりも面積を増し、黒く黒く光っていた。雲の裏側で陽が落ちて、街は明度まで失っていく。まるで彼のために夜が来るようだ。いいところで現れて、すべてを持っていってしまうのは彼のひどい癖の一つだった。
 胸が痛む。
 お腹に冷たいものを注がれた気がして、胃の入り口がきゅうと縮まった。つるつるとした安っぽい柄を握りしめる。

「なあ名前、元気にしてるか」
「今ね、胃が痛いです」
「俺のせい?」
「他になにかありますか」
「雨のせいとか、ホルモンのせいとか、お前の今の彼氏のせいとか」
「いい人です。すごく」
「フーン」

 彼は興味なさげに相槌をうって、つま先で灰を踏む。彼の煙草は雨でも火がつくようだった。雨音が少しだけ軽くなり、代わりにしょっぱい水が傘の内側に溢れる。

「なーんで泣くかねェ」
「西園さんが悪い。ぜんぶぜんぶ西園さんが悪い」
「……」
「雨宮さんもちょっと悪い。小林くんは、なんにも悪くない」
「ひーきだ」
「だってそうだもん」

 それはもう乗り合わせ事故のようなものだった。小林くんがいくらまっすぐ公道を走っていたって、他の二人にハンドルを奪われればたちまち危険なカーチェイスとなるのだ。銃撃戦のすえに丘を転がり、海に落ちて彼の人生は終わる。理不尽なものだ。

「でも、苦しまずに逝ったと思うぜ」
「そんなの」
「俺はどうだったかな」
「知らない。どっちでも一緒です。もういないんだから」
「ひでぇな」

 彼が笑った気配がして、私は目を閉じた。ふいに雨音が止み、代わりにどこか遠くの方で鳴っている轟音が聞こえた。 
 広い場所の音がする。
 雨ではなく海の香りがする。
 漂うキナ臭さはさっきよりも強い。これはきっと、飛行機が燃える匂いだ。

「苦しまなかったの?」
「どうだったかね」

 覚えていなくてもしょうがない。それはもうずいぶん、昔の話だ。

「夜だね。西園さん」

 雨は止んでいる。私は傘を閉じ、水滴を弾く東京の街へとひとり踏み出した。


2014.2.12

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