水温は五度




「迅! 玉狛はぼんち揚の倉庫じゃないって、何度言ったらわかるのよ!」
 艶やかな後ろ髪がぴょんと揺れ、部屋の温度が一度上がる。
 応接間の扉を勢いよく開けたのはセーラー服を着た少女だった。胸のスカーフを靡かせて、我らが実力派エリートを叱咤している。
「おっ小南、ちょうどいいところに来た。ちょっとこいつに稽古付けてやってくれよ」
 しかし当のエリートはといえば、彼女の怒号を意にも介さず眉を緩めたままでそう言った。
「はあ? ……名前じゃない。どうしたの玉狛来るなんて」
「うん、ちょっと私も本気で鍛え直そうと思って」
 こちらに気付いた彼女に軽く手を振り、私はそのままぽりぽりと頬を掻く。
「ふーん。いい心がけだけど、あたし手加減とかあんまりできないよ」
「むしろ、けちょんけちょんにしてくれた方がありがたい。気合い入れる意味で」
「そういうことなら任せて!」


 意気揚々と拳を握った可愛らしい女子高校生に、トリオン器官を破壊されること十二回──。
 仮想戦闘モードとはいえ、心身の限界を迎えた私はよろよろと足取り重くトレーニングルームを後にした。ビギナーズラックとも言える奇跡の初戦引き分けを除き、地獄の十一連敗。力の差は充分覚悟していたが、あの歳にしてボーダーの古株を誇るだけあって、彼女の経験値はやはり伊達ではない。
 今日得た反省と改善点を思い描きながら、支部のこざっぱりとした廊下を歩く。ふと、裏口のガレージから覗く碧い隊員服が目にとまり顔を上げた。
 何やら大きなダンボール箱の中を整えている彼の後ろに歩み寄り、声をかけるでもなく、ただぼんやりと背中を眺める。長身のその体は細いでも太いでもなく、適度に引き締まっていてバランスが良い。不得意なことなど何も思い浮かばないような、健康健全な後姿だ。
「迅さんは……」
「んー?」
 こちらを向かずに返事をした迅さんになぜか安心して、私はガレージの引き戸に寄りかかった。後ろ手に組んだ掌に、トタン板の冷たい感触が伝わる。元は違う目的で建てられた施設なのだと彼は言っていた。
 川の音が急に近くに聞こえ、目を閉じる。
「苦手なことってあるんですか?」
「はは、なんだよ。そりゃあるよ」
「例えば?」
「それは秘密」
 迅さんはずるい。教えてくれない彼の苦手を想像するけれど、ひらりひらりとなんでもこなす頭の中の迅悠一に弱点は見受けられなかった。あたりは静かで、顔が火照る。
「私ね、迅さんと……」
 一緒にいる理由がほしい。玉狛に属さなくとも、彼と何かを共有する理由が。
 しかし他人同士がそれをするには、どうやら何らかの愛を告げる必要があるようだった。男女であるならなおさらだ。でも困ったことに、私にだってこの愛の正体などわからない。「男としての迅悠一」を意識するには、私と彼じゃポテンシャルが違いすぎるのだ。彼はあまりに、エリートという組織的な属性をものにし過ぎている。結果、迅悠一はだいたいの人にとっての似たようなポジションに落ち着くこととなる。
 私は身勝手ながらそこから抜け出したくて、もぞもぞと落ち着きなく身をふるわせているのだ。
 彼を知りたいし、見ていたい。彼の生命エネルギーがそこにあることを感じていたい。できれば名前だって呼んでほしい。そしてどういう訳か、私は彼を慰めたいと思っている。
「……あの、そのね、名前呼んでみてもらえますか」
「うん。うん?」
 私の欠点は戦略性のなさだと、先ほどトレーニングルームで小南ちゃんに怒られたばかりだった。初動が速いのは良いのだが、行き当たりばったりで後が続かないのだ。戦い方次第でもっと強くなれると言ってくれた迅さんの言葉を思い出す。
 さてここから、どうすれば良いというのか。
「名字?」
「は、はい」
「それとも名前?」
「うっ」
「うって」
 一方の迅さんは不意打ちが得意で嫌になる。胸の奥で心臓とトリオン器官がぎゅうぎゅうとこすれ合うような気がしてたまらなくなった。今すぐこの場から緊急脱出したい。生身の体の難儀さと臨場感を感じる。
「ありがとうございます……元気出ました」
 言葉と裏腹に息も絶え絶えにそう言うと、彼はわははと笑って伸びをした。なんていうことはない。憧れられ慣れているのだ。私は曖昧に笑いながら、自分の気持の埋め場を探す。私に彼を慰める謂われはないし、資格もないし、方法だってない。
 扉から背中を離し、真似るように伸びをすると、こちらを見ていた迅さんがわずかに瞼を伏せた。
「名字、言って無駄なことなんてないよ」
 諭すはずの言葉に、縋るような響きを感じてしまい、私のおこがましい感情がまたむくむくと膨らんで胸がいっぱいになる。彼の頭を撫でつけて、背中をさすってやりたかった。彼の苦手はなんだろうか。彼の無力感は、彼の焦燥は、なんだろう。
 私は彼に何かを言いよどむことを、もうやめようと思った。
「私、迅さんに憧れてるんだ。迅さんが、好きだから」
 自分でも驚くくらいすんなりと出た言葉は、なかなかに簡潔で的を射ていると思った。私は迅さんが好きで、その好きな部分に、大層憧れているのだ。そして私は女で、彼は男だと、それだけのことだった。
「そっか」
「……はい」
「そっかそっか」
 彼は少し俯いたままで、腕を組み頷いた。水の流れが私たちを包んでいる。時の流れが音となって沈黙を埋めているようだった。
 彼の反応はそれっきりだったので、じわじわと汗が出る。
「……あの、それだけですか?」
「ごめん、あのな、照れてるんだ」
「えっ」
 やはり赤くなったのは私の方だった。
 彼の未来視のくわしいところは知らないが、なんとなく今の展開さえバレているだろうと思っていたので、この反応は意外だった。
「驚かせましたか」
「いや……わかってたって、照れるよ」
「……そういうもんですか」
 わかっていたって照れるし、わかっていたって悲しいし、わかっているから悲しいこともあるのかもしれない。
 なんにしても、そこに温度がある以上、起こることと起きたことは違う。私の感情は無駄じゃないし、彼の行動は無駄じゃない。誰の心も無駄なんかじゃない。彼が言いたいことはそういうことだろうか。
「わかりました。わかってたって、何度でも言います。私、迅さんが好き。好きです。大好き」
「あの、やめて、マジで」
 彼は頭の上のサングラスを取り去ると、前髪をわしゃわしゃと掻いて下を向いた。迅悠一の意外な一面を見て、私の愛情の正体は一気に明るみに出そうだった。
「なんか、暑いな」
「本当ですね」
「部屋、行くか。たぶんおやつ棚に宇佐美のマカロンがある」
「勝手に食べたら怒られません?」
「へーきへーき、後でぼんち揚足しとくから」
 それは果たして足しになるのか。疑問に思いつつも、ガレージを出る彼の後に続く。
 前を行く迅さんの背中はやはり悠然としている。しかし、先ほどよりもずっと身近に感じた。天才肌で、寛容で、苦手もあって、照れもする、ありふれた男の子の背中がそこにある。
 本当だ。
 言って無駄なことなんて、この世にはないみたいだ。

2014.1.5

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