パラレルノーツ



 折原臨也の記憶がなくなったらしい。
 そんな出来の悪いジョークを聞かされ笑う気も起きなかった私だが、あまりのつまらなさにむしろ怒りが湧いたのでマンションへ足を向けたのだ。近頃会えていないことの言い訳としては、最低レベルだと思った。

「ごめん」

 しかし、部屋に通されて一言目に発っせられたその言葉を聞いて、私は自らに手のひらを返すがごとく確信した。彼は以前までの折原臨也ではない。この男が私に謝罪をしたことなど、今までにあっただろうか。私の知る彼は、私を知る彼は、目を見て私にごめんとは言わない。

「えーと、あの……それはどういうごめん……?」
「……君が人間で、女性で、おそらく俺と同じくらいの年齢で、以前の俺と顔見知り以上の関係だったんだろうというところまでは、わかる。後半は予測でしかないけど」

 ティーカップに紅茶を注ぎながら、彼は彼にしてはゆったりとした、穏やかな口調でそう言った。私はその言葉を咀嚼するために、ひとまず渡されたカップに口をつける。初めて見るカップだ。普段気兼ねなく使っていたマグではなく、戸棚の奥にしまわれていた来客用のものなのだろう。戸惑いが隠せない。
 未だからかわれているという選択肢も当然ながら捨てられず、私は言葉に詰まり彼をじっと見つめた。
ソファーの向かいに座る臨也はその視線を受け、肩をわずかに強張らせる。そしてごまかすように曖昧に口角を上げた。が、うまく笑えていない。どれも、初めて見る反応だった。いたたまれず目を伏せる。

「……記憶がないの?」

 おそるおそる口にした疑問を、嘲笑うように否定して私の騙されやすさを馬鹿にする彼の憎らしさを、いつの間にか望んでいることに気付く。

「記憶がないというか、」

そ んな希望も虚しく、臨也は痛切な顔をして目を閉じた。

「あ、あるの……?」
「思い出せないんだ」
「やっぱ、ないの」
「ないわけじゃ……」

 おそろしく歯切れが悪い。とても折原臨也とは思えない。眉を寄せながら額をこする彼を見ながら、私は血の気が引いていくのを感じた。

「なんで、どうして……? 何があったの?どういうこと!?」

 彼の友人は原因として強く頭を打ったことを挙げていたが、その経緯までは言っていなかった。そもそも全く信じていなかった私はろくに聞いてもいなかったのだ。

「大丈夫なの!?」
「大丈夫ではないよ。なんせ記憶がない。でもまあ、体は見ての通り、ぴんぴんしてる」
「記憶喪失って!」
「落ち着いて。わかるけど」
「わかるの? なにが?」
「焦る気持ちはわかるよ。……つまり、状況を判断するための知識まで失ってるわけではないんだ。ただ俺個人に付随する……人や物との関係性や関連性、固有名詞、今の状況に至る過程なんかが、すっぽりと抜けていて思い出せない」

 とりあえず、会話に不自由がないのは確かのようである。そんな漫画みたいな症状があるものかとも思ったが、そういえば昔何かの本で読んだことがあった。逆行性の部分健忘というもので、ある地点以前の記憶が部分的になくなるのだ。脳をタンスに見立てたとして、生活のための知恵や言語能力を蓄える引き出しと、個人情報や過去の経験を蓄える引き出しとが別れていると考えるならば、どちらかだけが抜け落ちるということもあり得るだろう。

「えっと……何が原因で……ていうか、家族とかは知ってるの?」
「家族とは会ったよ。父親は忙しいみたいだけど、母親は仕事にきりをつけて海外から帰ってきてくれた。それから可愛らしい妹が二人。結局最後まで俺がすっとぼけてるだけなんじゃないかって疑ってたけど、どれだけ信用なかったんだろうね。……でもあったかい人達だったよ。あんなに親身になって心配してくれるなんて、まあ、家族なら当たり前なのかもしれないけど、ちょっと感動するよね」

 普段ならありえないような発言があちらこちらに散りばめられていて、その度にむやみにドキドキする。素直じゃない臨也の本音を聞けたような錯覚に陥るが、もちろんそれとは少し違う。

「どれくらい、自分のこと把握してるの?客観的にでもさ……例えば、仕事とか」
「情報屋、だろ? 笑っちゃうよね」
「う、うん。……まあ」
「……」

 自虐的に笑った臨也に、日頃から感じていた肯定を示せば彼は俯いてしまった。自分自身に翻弄される臨也を眺めていると、なんだか可哀想になってくる。今の臨也も、過去の臨也も。

「……俺は東京の街でこんな膨大な情報を集めて、一体何をするつもりだったんだろう。これで食ってたみたいだし、生きていくための手段に過ぎなかったのかもしれないけど、ただの手段にこんな面倒臭い方法を選ぶかな?何か、目的があった気がしてならないよ」

 自分が考えていたことが、いくら考えてもわからないとなると、彼のあの難儀な趣味嗜好はある程度後天的、もしくは段階的に形成されていったものなのかもしれない。誰も正解を教えていないことから、周囲が今までどれほど彼を迷惑に思っていたかが伺える。少し泣けた。

「集めたらしいデータだって、開けないものばかりだよ。さすがになんのロックもガードもパスもかかってない場所に、大した情報は置いてないみたいだ」

 そう言って彼は若干の期待を込めた目で私を見たが、慌てて首を振った。残念ながらというかなんというか、私が知っている彼のデータ事情など、ノートブックの方のドライブD奥深くに、なにやらいかがわしい動画を保存していることくらいである。そんなことはもちろん教えず力になれないことを詫びると、彼はソファーの背にぐっと体を反らせ、二階のロフト部分にある大きな本棚を見上げた。

「表にある情報だって、何に使ってたのか、どれほどの価値があるのか、今の俺にはさっぱりわからない。そもそも本当に情報なんてものをやりとりして金を稼いでいたんだとしたら、曖昧な記憶で仕事の関係者と関わるのは自殺行為だ。だから、」

 ため息混じりの独白を遮るように、ガラステーブルの上で臨也の携帯電話が鳴る。

「電話もメールも、全部取り合ってない」

 彼はそれを手に取り着信画面を眺めた後、音が鳴り止むのを待って電源を落とし、ソファーへ放った。そうしてもう一度背もたれに背中を預け目を閉じる。だいぶ疲れているようだった。当然かもしれない。なんと声をかけたらいいかと迷い、小さな声で名前を呼んだ。
少しの沈黙の後、彼はゆっくりと目を開け、私を見据える。

「とりあえずさ」
「……はい」
「君との関係を、聞いてもいいかな」




2013.9.18
導入部だけ書いて力尽きました。いつかシリーズものにできたら。


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