通り雨まで三秒




「迅さん! そろそろ私を玉狛支部に……」
「入れないよ。名字は自分の隊を大事にしなさい」
 今日も今日とてすげなく断られ、私はがくりと肩を落とした。はははと笑う、迅さんの厚い瞼がうらめしい。
 夏空を切り抜くようにそびえるボーダー本部が、ありふれた都市部郊外の住宅街に四角い影を落としている。それはあまりにも巨大なため、見る者の距離感を狂わせ、現実感を奪う。日常から乖離し過ぎているものは逆に意識の範疇から外れるのかもしれない。今日も三門市の街並みは穏やかだった。その中へ出入りしている私たちを除いて。
「迅さん、本部出頭なんてまた何かやらかしたんですか?」
「やらかしたんじゃなくて、やりとげたの。名字はおれにどんなイメージ持ってるんだ?」
 彼のイメージは、スタンドプレイがやたらと多いわりに組織での評価が高いという、謎の男だ。実力ゆえなのだろうが、彼の人柄によるところも大きいのだと思う。
「いつも楽しそうですよね。迅さん」
「名字は楽しくないの?」
「そんなことないけど、玉狛に入ったらもっと楽しそう」
 戦闘タイプの分担を基本としたボーダー内の編成を、一個人の希望で組み替えるというのは確かに難しい話だ。自分の隊に不満があるわけではないが、組織内部がぴりぴりしている今、水路に浮かぶ孤高のアジトはたまらなく魅力的に見える。
 キャリアばかり長いもののB級下位で足踏みして久しい私には、派閥の力関係も幹部の裏事情も把握しきれていない。ただなんとなく、近頃三輪隊の視線が痛い気はする。
「名字は戦い方次第でもっと伸びる気はするんだけどな。今度うちのトレーニングルーム来るか?」
「えっ、玉狛に……!」
「入れないけどね。おまえは実戦経験が少なすぎるよ」
「……そうですね。今度小南ちゃんに手合わせ願おうかなあ」
「あいつは手加減を知らないぞ」
 『未来視』のサイドエフェクトを持った迅さんにそう言われると、なんとなく腹の底から力が湧いてくるから不思議だ。
 彼の能力は本当のところ、サイドエフェクト以上にその話術なのかもしれないと最近思う。実際どれほどの割合で彼が本当の未来を語っているかなど、誰にも解らないのだ。予言は人を惑わし操る。彼の言葉は叱咤や激励になると同時に、威嚇にも牽制にもなる。駆け引きにはもってこいだ。
「ところで名字、今日はそんな相談をしに来たんじゃないだろ」
「え! な、何でですか?」
「おれの、あーいや……なんでもない」
「サイドエフェクトですか!? 日常でそれ使うのやめてくださいよ、セクハラ!」
「副作用だからなー、やめろったって無理だ。……セクハラ?」
 おぼろげにせよ、未来が見えるなんてつくづく反則だと思う。
 組織の均衡が揺らいでいるのだって、実のところ私の憧れである玉狛支部こそが原因であると、それくらいは私にも解る。彼は自称するだけあって本当に実力派のエリートなのだ。組織のパワーバランスを彼の重心が左右してしまうほどに。
「セクハラってなに、そこはかとなく納得がいかない」
「どうせ私があなたに言いたいことだって、もうわかってるんでしょう」
「おれに見えるのは未来のイメージだけだよ。心を読めるわけじゃない」
「……」
「名字、おれを疑ってるだろ、そしてまたぷんすか怒る。おれのサイドエフェクトがそう言ってる」
「からかわないでください!」
 迅さんの言うとおりムキになると、彼はまたゆるりと目を細めた。その余裕が憎らしい。
 立場や実力からか大人ぶってはいるものの、彼の目はいつでもいたずらっ子のような光をおびている。私はそれを向けられるとすぐに喉の奥が熱くなって、目が離せなくなる。
 おおらかな自信に満ちたその表情は、彼を必要以上に大きく見せるでもなく、むしろ迅悠一という人間ありのままを受け入れさせる説得力のようなものを持っていた。やはり彼は特別な人間だと思う。
 もしも私が思いの丈をすべて打ち明けたら、彼はどんな反応をするだろうか。未来のわかる彼がこんなにも余裕綽々でいられるのは、つまり彼に見えている二人のイメージがこの先も変わらない物であるからに違いなかった。平和で穏やかな、先輩後輩としての私たち。
 そう思ったらなんとも虚しくなって、私は続く言葉を飲み込んだ。彼は困ったように笑うと、サングラスに触れて太陽をあおぐ。
 さっきまでまっさらに晴れていた空には、西から流れこんできた雲が薄く伸び始めていた。ほのかに水の匂いがする。予知はできないが、予報くらいは覚えている。それなのに傘を忘れた。
「……言いたいことあるなら、聞くけど?」
「……ほら、やっぱりバレてる。サイドエフェクトの濫用ですよ」
「いやいや、そんなもの使わなくてもさ」
 おまえの顔がそう言ってる、と、迅さんの顔が言っていた。赤い自覚はある。追い打ちをかけないでほしい。そう思うのに、視線がそらせない。
「まあ、これ食って落ち着け」
 ぼんち揚げが喉を通る気分ではなかった。
 私は彼の目の中に映る未来を、なんとか探し当てようと精一杯だった。

2013.8.30
「最後の夏休み」提出

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