革の小舟




「ちょっと、痒いから触らないで」 

私のなぞったうなじをぽりぽりと掻きながら、臨也は言った。心ここにあらずといった声色である。彼の意識は目の前のタブレット端末へと向いている。

珍しく薄い色の部屋着を着た臨也は、ディスプレイに指を滑らせながらずるずるとソファーへ沈み込んだ。肘掛から肘掛へ、体を伸ばしてたっぷりと占領しているため、私は仕方なく床から彼を眺める。立てられた片膝が彼の白ともグレーともつかないノンアイロンのインナーにへなへなと影を落としていた。この男は無彩色以外を身につけると死ぬ病にでもかかっているのだろうか。ベルトをしていないズボンのウエストからは無防備にボクサーパンツのゴムが覗いている。その辺のありきたりな大学生のようで、なんだか微笑ましくもあり、腹立たしくもあった。異端ぶっている彼が十人並みの日常を晒している時、私は何故だかイライラするのだ。
だらしなくよれたインナーの裾から手を滑り込ませ、硬い腹をぺちぺちと叩く。

「……ねえ、本格的に鬱陶しい」
「だって上の空なんだもん」
「忙しいんだよ。見ればわかるだろ」
「ごろごろしながらオンラインゲームやってるようにしか見えないけど」

見たままを言えば、臨也はまるでなにも聞こえなかったかのように会話を打ち切った。静かな部屋にはパネルをタップする際たまに鳴る、カチカチという爪の音だけが響いている。退屈な私がそのまま臍の辺りに手のひらを乗せていると、彼は「触るな痴漢」と言ってうつ伏せになった。

「痴漢じゃないよ」
「そうだね、痴女だ」
「お腹触っただけじゃん」
「女が男に触ることに関して寛容過ぎるこの社会、本当に腹立たしいよ。男だって合意がなければ被害者になり得るってのに」
「それはやっぱり、確率とか可能性の問題っていうか……」
「確率?俺は女の君より、ずっと痴漢の被害にあってる自信があるけどね」
「……えっ。臨也触られるの?電車とかで?」
「触られるよ」
「男に……?」
「どっちも。この前誘うふりして路地裏に連れ込んだオッサン、元気にやってるかなあ」

臨也はタッチパネルに指を乗せたままどうでも良さそうにそう言うと、足を組み替えニヤリと笑った。何かいいアイテムが手に入ったらしい。

「楽しい?」
「楽しいよ。オンラインゲームだって現実だって、仕組みにそう変わりはないよね。レベルを上げてアイテムを増やして、自分のステータスを充実させていく。そうすりゃ自然と人が集まり、物が回る。好循環ってやつだ」
「……それで臨也、そのおじさんと、あの」
「何もするわけないだろ。そんな趣味はないよ」
「あっ、だよね。良かった」
「まあ、いろいろとアイテムは置いていってもらったけどね」

臨也に名刺や社員証、携帯電話のデータ諸々を抜き取られる痴漢サラリーマンを想像し、私はうっかり同情しそうになった。自業自得とはいえ引きが弱過ぎる。
しかし日常をゲームに例える彼が、私のような平凡なステータスの女と一緒にいるのは一体何故なのだろうか。

「臨也が得するようなアイテムなんて、私持ってないけど」
「そうだねえ、君は驚くほどなんにも持ってないねえ」

臨也はしみじみとそう言い、やっと手元から顔を上げたかと思えば、私の頭から腹の辺りまで視線を走らせ溜め息をついた。失礼な奴だ。どうせならちゃんとつま先まで見てほしい。途中で諦めるな。

「まあしょうがないよね。そういうこともあるよ。誰もがレアモンスターってわけにはいかないからさ。エンカウント率をいじれないからこそゲームは面白いんだ」
「モンスター……」
「あはは、例えだよ。スライムって言った方がいい?」
「勇者なんて柄じゃないくせに」

だいたいスライムなんか家に連れ込んで何をしようというのだ。私はさっきも言ったが大したアイテムもコインも経験値もイベント発動装置も、持ち合わせてはいない。

「私を倒してもろくなもの得られないよ」
「倒すつもりなんてないよ。押し倒していいって言うならそうするけど」
「おっさん……」
「なんとでも。だってそうだろ、ゲームと違って現実のいいところは、こうして触れるところだ」

臨也はそう言って、床に座る私の髪を耳ごと掬い上げた。
その手つきがいかにも寂しがり屋のようで可愛かったので、私はついつい目を閉じてしまった。唇ではなく、耳を小さく食まれる。その行動も、彼の男としてのどうしようもなさを表している気がしてはがゆかった。上半身を中途半端に起こした臨也はソファーの上からぽとりとした目付きで私を見つめている。今日の彼は完全にオフモードのようだ。

「あ、名前。なんかムラムラしてきたかも」
「へ、へえ」
「上、乗る?」
「乗らないよ」
「触りたがってたくせに」

彼は少し残念そうな顔をしてから、再びタブレットへと視線を戻した。オンラインゲームに負ける程度の欲情とはどのようなものなのか。虚しくなって画面を覗き込むと、そこにはすでに鎧を身に纏った勇者ではなく、下着を身に纏ったお姉さんたちが映し出されていた。

「ちょっと!」
「名前が協力してくれないから」
「だからって仮にも恋人の横で、そんなもの鑑賞する?臨也は静雄くんに殴られすぎてデリカシー粉々になっちゃったの?」
「あいつの話はやめてよ。萎える」

萎えてそのまま腐り落ちてしまえばいいと思った。タブレット端末は多目的性に富んだ手軽さが売りだが、TPOくらいは弁えて欲しい。

「恋人は俺としたくないみたいだからさ」
「そうは言ってないよ」
「じゃあしようよ。ほらしよう。今しよう」
「……ゲームに夢中で私をほったらかしてたのは臨也でしょ」
「もう飽きちゃったんだよ。それに、急にすっごくいやらしい気分になる時あるだろう」

そんな男の事情など知ったものか。気分次第で触るなと言ったり触れと言ったり、本当に自分勝手だ。
しかし隣で個人的な性欲解消に耽られても困るので、仕方なしに革張りのソファーに膝を乗せる。私の腕をぐいぐいと引っぱる臨也はいつになく衝動的だ。普段の気どった思わせぶりはどこかへ飛んでいってしまったようだ。

「い、臨也?」
「なに、俺が盛ってたらおかしいの?」
「別におかしくはないけど……」
「けど?」
「ちょっとイライラする」
「……乱暴にされるの好きだっけ?」

よれたインナーを早々に脱ぎ捨てた臨也はやはりその辺の青年のようで、私はイライラムラムラと胸が熱くなるのを感じた。もったいぶっているのか服を脱ぐのが嫌いなのか知らないが、いつもは最後の最後でやっと上半身だけ裸になるような臨也が、まだ明るい午後のリビングで肌を晒していることに違和感を感じる。ズボンの前をくつろげた彼は「脱いで」と囁き私の腰に手を当てた。展開の早さにまごついていると、臨也の肌の色が迫ってきて視界が反転する。噛み付くようなキスが苦しくてくぐもった声が漏れてしまう。それに反応するように、彼は体をぐいぐいと押し付けてきた。
唇が離れ、首筋に熱い息が当たる。

「……早く入れたい」

懇願するような声は、もはや苦しそうなくらいだ。男の体のことはよくわからないが、性欲が先走ってしょうがないと、まあ、そういう日もあるのだろう。なんだか可哀想になってしまい、私は中に着ているキャミソールごと手早く服を脱いだ。下着を外し、正面から抱きしめる。臨也は褒められた犬のように目を細めはあと息を漏らした。

「……俺、意外とこういうのも好きでさ」
「こういうのって……?」
「なんにも持ってない女の子を裸にして、全部もらってやったり。そういうこと」

はじめからわかっていたことだけれど、彼は勇者というよりは魔王寄りだ。


2013.6.24

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