Second Opinion



「女に手ェあげてんじゃねーよ」

路上にはさっきまで私の彼氏だった男がボロ雑巾のように倒れていた。

彼が私の髪を掴んだ数秒後には、高杉くんが彼の襟首を掴んでいて、その二分後には彼は彼でなく元彼になっていた。
そもそも別れ話の途中だったのでどっちにしろそうなってたんだろうけど、あまりの劇的な転換ぶりに私は立ったまま瞬きを繰り返した。

高杉くんは表情一つ変えずに元彼の腕に足を乗せ、思い切り踏み付ける。
男の悲鳴が響き渡り、肉が歪むような骨が軋むような聞き覚えのない音が聞こえた。
私は咄嗟に高杉くんの学ランを掴む。

「まだ折れてねェよ」

なのに何故止める?という表情で、彼は当然のように更に体重をかける。ほとんど女のように高い声でひゅーひゅーと喘いでいる元彼に堪えかね、腕を強く引っ張った。
ぶんぶんと首を振ると、高杉くんは開いてた瞳孔をひゅっと黒目がちにさせ、私を見た。

「なんだ、こんなモンでいいのか?」

拍子抜け、というより呆れたような顔をしている。
確かにこの男には腹が立ったし怖かったし痛かったが、もう充分過ぎる。私は弱い人間なので、自分のために痛め付けられる誰かをこれ以上見るのは堪えられない。

その気持ちを察した訳ではないと思うが、元彼は残された力の全てを使って細い路地裏へと逃げて行った。
高杉くんが舌を打つ。

「……いつから見てたの?」
「あの男が逆上してお前を売女呼ばわりした辺りから」
「…そう」

お礼を言うべきか言わないべきか迷っていると、彼は私に背を向け駅の方へと歩きだした。
私はとりあえずその後を追う。

高杉くんは振り向いて何か言おうとしたけれど、タイミングよく通った電車の音に邪魔され、通り過ぎる頃には気が削がれたのかまた前を向いて歩きだしていた。
学ランの襟に軽く乗っかる程度の襟足が、一箇所跳ねていて触りたくなる。しかし当然そんなことはせず、私は彼の三メートルほど後ろでいつもより早めにローファーを鳴らした。

アスファルトにこびりついて黒くなったガムを避けながら、青緑色のフェンスの続く線路沿いを歩く。
たまに通る小さなアーケードの壁には下手くそなペインティングがところ狭しと並んでいて、ここらの治安の悪さが窺い知れた。

「…着いてくんなよ」
「一本道だし」
「引き返せよ」
「…怖いもん」
「やっぱアレじゃ足りねェんだよ」

吐き捨てるように言いながら、彼は駅へと続く歩道橋の階段を通り過ぎる。

「どこ行くの?」
「…コンビニ」
「その後は?」
「………」

彼は何も答えないけれど、怒ってて我慢するタイプでもないので、たぶんまだ着いていっても大丈夫なんだろう。

コンビニから出てきた高杉くんは、まだ帰る気のなさそうな私を見つけるとギロリと眉を寄せ睨んだ。
怖い。けど、彼が女に手をあげないのはある意味身をもって知っているので、私は高杉くんのジョーカーを手元に持っているような気になった。
彼もその自覚があるのか、ため息をつきそのまま歩きだす。

彼が歩くと周りの空気が少しずつ流れを変えるような気がした。
きっとそれは実際に周りの人達が彼という異分子を恐れて身を緊張させるせいだ。それは本人からしたら良い気分なのか悪い気分なのか私には解らなかった。でもそれにすっかり慣れてしまっていることは解った。

まぁ怖がられるのも無理はない。
なにしろ高杉くんの目の色が普通の高校生のようになるのは、どうやら何かに呆れたりした時だけのようで、それ以外は常に人を殴る寸前のような目をしている。

確実に何かに狙いをすましている目だ。その標準はもはや具体的な物ではなく、身の回り全てに当てられているのだろう。世の中に対する不満を一切隠さない、不良独特の目だ。
彼らは失う物というのが思い付かないのだろう。よって怖い物などない。
何をしでかすか解らないし、実際に意味の解らない事を、自分たちだけのルールに沿って、当然のように行う。

そしてそのルールは各々微妙に異なるから、会話感覚で人を殴り倒すことになる。周りからしたら理不尽だろうが、彼らには普通のことなのだ。
暴力の中に生きている人間は痛みの基準が普通とは違う。もちろん肉体的にではなく、精神的に。慣れているのだ。"殴られたショック"というものを持ち合わせていない者は強い。

高杉くんは歩調を変えずどんどんメインストリートから離れ、地元の中でも私の行ったことのない方面へと足を向けていく。
経営が心配になるような寂れた薬局を曲がり、時代錯誤なカラオケスナックの前を横切り、悪趣味な配色の看板を掲げるマッサージ屋の密集地を抜ける。

たどり着いたのは、飲み屋とも喫茶店ともつかない教室半分くらいの広さの汚い店だった。
パチンコ屋の裏にあるそこは空調の音がやたらと大きく、そのわりに空気が淀んでいる。
照明も裸電球がいくつかぶら下がっているだけだ。

あちこちに吸い殻の溢れたアルミ灰皿や割れた茶色い瓶やあまり見ないサイズの空き缶や用途不明の金属片やボロボロの塗炭板なんかが転がっている。

私たちの他に先客が二人ほど居て、一人は黄色い綿の飛び出た皮張りのソファーに沈み携帯を弄っており、もう一人はカウンターでこの場所には不釣り合いな高そうなギターの弦を張り替えていた。

二人とも店に入ってきた高杉とその後ろに続く私をチラリと一瞥し、すぐに手元に視線を戻す。
どうやら絡まれることはないようでホッと息をついた。

「…いつもここいるの?」
「もう来んなよ」
「今日はいいんだ」
「るせーなァ、今すぐ帰れ」

高杉くんは柄の悪い口調で言った。しかしこうなってくると、あまり怖くない。
一見、血も涙も加減も容赦も、理屈さえないように見える高杉くんだけど、私は今日一日でいくつか彼なりのルールを発見してしまった。

例えば「殴りたいと思った時は躊躇わない」「相手が弱くても同情しない」「今後刃向かってこないようトドメをさす」などだ。
そしてもう一つ、「それらはすべて男にのみ適用」。
そんなルールのためのルールを高杉くんは持っているようで。
古風だが、男女平等とかほざきながら弱い者を虐げる現代っ子よりずっといいと思った。

いいと思ったけど、私は彼に別のルールも教えてあげたくなった。

殴らないし殴られない、それでいて大きな衝撃を伴うコミュニケーションを交わしてみようよ。

「…なんだそれ、聞いたことねーよ」
「人はそれを恋愛と言うんだよ」

私がパッと顔を上げてそう言うと、彼はまた眉を下げ、呆れたように黒目を大きくさせた。
ギターの男が小さく噴き出したのが聞こえた。


君と試す新しい方法


2011.3.27


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