壁外調査から帰還し一日が経った。
索敵陣形の導入や情報伝達の徹底から一回の出兵に伴う犠牲者の数は減っていたが、それでも皆が生きて戻れるわけではない。心を癒し死者を悼むため、団員たちは夜通し酒を飲み交わしていた。友を失った焦燥と生きて戻った高揚が、安物の酒と混ざり合い胸を焼く。何度味わっても慣れないものだ。しかしこの瞬間、皆はとても優しく笑うのだった。私はそれを愚かなこととは思わない。きっと私も同じ顔をしている。
「あれ名前さん、もう部屋に戻るんですか?」
陣形右翼を共に担った後輩に呼び止められ、飲みすぎたみたいと手を上げる。本当は嫌になるほど酒は回らなかったのだが、そんなことは皆同じだろうと思い言わなかった。
本部の見慣れた石段を上り宿舎へ戻ろうとしたけれど、ふいに外の空気が吸いたくなりバルコニーに足を向けた。東の空はぼんやりと光り始めていて、屋内から踏み出すと瞳孔にかすかにしみる。広いバルコニーの端には未だ制服に身を包んだままの上官の姿があった。
「兵長……」
上への報告に追われ、まだ一度も休めていないのかもしれない。後ろに近寄り、彼の視線の先を扇ぎ見た。シーナを中心になだらかに裾野を広げる人類の庭は、巨人の進行など遠い世界のもののようにシンと眠りについている。
「同期が死にました。二人」
「……ああ」
とうに知っているであろう事実を、思わず告げてしまう。彼は前を向いたまま低く頷いた。
今ここで死者を惜しむ私だって、あと何回壁外から戻れるかは解らない。確率から考えて私のような兵士がいつまでも生き延びられるとは思えなかった。そう遠くない未来、私は無残にも肉の塊と化すのだろう。だからといって明るい未来を捨てているわけではない。理想のない者にどうして希望が担えるだろう。死ぬつもりで壁の外へ出る人間などはいなかった。皆生き延びてやるという強い意志のもとマリアの土を踏むのだ。それはもしかしたら二重の壁の中酒を煽る憲兵団や、平和を当然とするローゼの民衆よりさらに強い生への執着なのかもしれない。それでも外へと踏み出す私たちを彼らは愚かと笑うだろう。人類の尊厳などという果てしないものを、ちっぽけな自分の体に賭けて戦う人間がいることを、彼らは信じられないのだ。
先ほどより空は熱をもっているようだった。低い部分が紅く色づき始めている。
あの地平線の向こうには、更なる地面が広がるのだという。私には壁のない世界というのがいま一つ想像できなかった。どこまででも行ける大地で、彼らはどうやって自分のいるべき場所を定めていたのだろうか。溢れすぎた選択と、私たちが思う「自由」は違うものだったのかもしれない。その意志を掲げたマントが目の前で揺れ、遠くの景色から視線を戻す。
私の居場所はここだ。壁の中。彼の後ろ。
「兵長、手に、手に触れてもいいですか」
確かなものに触れたかった。そうしないことには、やたらと世界が広く見える夜明け前の空の下で、自分という存在が掻き消されてしまいそうだった。穴の空いた心に朝の風は冷たすぎる。それなのに、私はもう仲間のために泣く方法さえ忘れてしまっている。涙を流して感傷的になるには、多くのものを失い過ぎた。自己を律する強い彼と違い、私が泣けないのは考えることをやめたからだ。過去に思いを馳せるなど、走馬灯だけで充分だと思った。前を向いていないと私は足を止めてしまう。
兵長が私の言葉に返事を返してくれないので、私は諦めて自分の右手で左手を握ってみた。ますます自分が小さく思え身震いが走った。俯きそうになった頭を、突如前から掴まれ、躓きそうになる。
「わあ!」
「夜が明けるぞ」
城柵に手を付いた瞬間、林の影から陽が差して地平が細く光った。眼下の街が橙色に染まっていく。壁は逆光の中、黒く長く浮き立っていた。これが私たちの街──人類の全てだ。
「兵長、痛いです」
「文句を言える口があって良かったな」
「……そうですね。私はまだ痛いし、喋れるし、生きています」
そう言うと、兵長はやっと私の頭を開放した。彼は先ほどの私の言葉を慮ってか、その手を空中で一度止める。驚いたが、逃さず手のひらを合わせた。指に力を込めぎゅっと握り込む。こんなに確かなものはないと思った。朝霧のようにとりとめもなくなっていた私の心が、すうとそこに集約され、重く熱をもった。
「あったかい」
「泣くほどか」
「うん……」
あまりにホッとして、私は敬語を使うことも忘れていた。彼が兵団に来て間もない頃、同期で語り明かした青臭い夜を思い出す。あの頃の彼はエルヴィンさんに言われ渋々集団生活を学んでいる節があったけれど、そんな彼が今では部下思いの兵士長だ。それらを覚えている人たちがもう随分減ってしまったことに胸が痛むが、彼らも託せるのがリヴァイ兵長で良かっただろう。
終始前を向いていた彼が、私と同じ強さで手のひらを握っていることに気付き、私の胸はもう一度痛んだ。私たちは手を繋ぎながら寄りかかり合っているようだった。
2013.6.13