「たまには日が沈む前に来たらどうですか」
「悪いな。暇じゃねェんだよ」
この男と知り合ったのがどれくらい前だったかはもう忘れてしまった。ただ出会った瞬間のことは今でもよく覚えている。
とても風の強い日で、強風に背を預けるようにして立つ彼の黒髪が、細く長く前へと流れていく様がとても綺麗だと思った。
『お前さん、この辺りには詳しいのかい』
『え?』
風の強い日に出会った人物は、その人の人生を揺るがすのだという。昔誰かに聞いた。
『ちょいとこの街のことが知りてぇんだが』
彼はこの辺りで商売をしたいのだと言って、近頃の景気や街の情勢などをなんとなしに聞いてきた。
私は世間話感覚で、幅を効かせている資産家の名前や役人たちの力関係などを話し、話した後で少し後悔した。
が、特に愛着のある街という訳でもなかったし、それよりも男の綺麗な指の形にばかり気を取られていたと思う。
彼が礼を言い茶屋の椅子から立ち上がったので、名前を尋ねると「高杉だ」と言い少し笑った。
翌日、資産家の屋敷に賊が押し入ったとかで大騒ぎになった。
そして高杉は今でも私の家にやって来る。
家を教えた訳ではないが、彼が最初に訪ねて来た時、私は特に驚きはしなかった。安易に中へ招き、安易に気を許し、安易に身を委ねた。
布団の中で、一目惚れの破壊力というのは恐ろしい、と大まかな結論を付けたのを覚えている。
そんな始まりだったため、私は彼の素性とか身元とかそんな物を知る機会も興味もなくしてしまった。
「たまには明るいうちに来て下さいね」
「気が向いたらな」
二度目に会った時以来、彼は笠を目深に被るようになっていた。
彼の背中を見送るたび、少しずつ変わっていく街のことなど私の目には入っていなかった。
そして今日もまた随分と風が強い。
私は家で一人テレビを観ていた。
昨夜、この辺りに住む財閥の御曹司が闇討ちに合ったとかでワイドショーは賑わっている。
チャイムが鳴ったので戸を開けると、近所に住む男が佇んでいた。私が軒先に干していたはずの足袋を、片手に携えている。
「あら、すみません」
「いや。…大丈夫か?」
「大丈夫です。他は飛ばされてないみたい」
「そうじゃなくて、その」
「…なにか?」
「あんたやっぱり……知らないのかい」
部屋の中を酷く気にしながら、足袋を手渡す男の指は震えていた。
生乾きのそれを受け取る、と、同時に何かをクシャリと握り込ませられた。
隣人は無言で去っていく。
何事かと寄れた紙切れを開けば、そこには確かに私のよく知る顔と、声に出せば誰もが聞いたことのある彼のフルネームが書いてあった。
上には指名手配中という大きな文字。
予感くらいはあった。
しかしいざ直面すると、なかなか頭は回らないものだ。私はただ阿呆のように、手配写真の黒髪に見とれてばかりいた。
「どォするか決まったら、教えてくれねえか」
どれくらい立ち尽くしていたのだろう、いつの間にか暗くなっていた廊下の奥から男の声が響き、私は息を飲み込む。
「…いつからいたんですか」
「日が沈む前に来いって言ったのはお前ェだろ」
外には既に星が瞬いていた。
高杉は呆れたように、けれど何でもないようにため息をつくと、軽い調子で続ける。
「さて、そんだけ悩みゃ決まったろ。通報するか?それとも」
俺と来るか?
問われ私は逡巡する。
どうしてその二択なんだ、と思ったが、確かに私は彼と関係しているのを隣人たちに見られているし、今更知らぬふりは出来ない。そして目の前の男が私を見逃してくれる様子もない。
彼の正体を知った以上、敵になるか味方になるか、どちらかしかないのだ。
しかし根っからの凡人である私が指名手配犯の仲間になるだなんて。
「私に死ねと、言ってるんですか」
「逆だ。俺のために生きろっつってんだよ」
彼はそこらの悪ガキのように根拠のない自信をたぎらせて、得意気に笑った。罪のない笑顔に見えた。天下の大罪人だというのに。
一目惚れというのは本当にすごいものだ、と私は改めて思った。いきなりやってきて、すべてを巻き上げていく。
「…ほぼ同義な気がしますね」
「そうか。じゃあ死ぬ覚悟で生きろ」
私は手配書を破り捨て、彼の手を取る。
風が轟々と鳴っていた。
嫌いなお方の親切よりも
好いたお方の無理がいい
都々逸企画『論はないぞえ、惚れたが負けよ』様提出
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