モノクロガーデン



「新羅、俺はね、死ぬのが怖いんだ」

 酒に酔った臨也が、そう零したことがあった。その時の僕たちはもう大人で、大人になりたてで、まだ未熟で、でも子供には戻れなかった。そして違法性のない酒を飲んでいた。飲んでいいと言われて飲む酒は、飲むなと言われて飲む酒よりいくらか薄く感じたのを覚えている。味の話ではない。
 彼はいつものように黒いコートを着ていて、僕もいつものように白い白衣を着ていた。無彩色で華のない、二人の男。たくさんの缶ビールと、たくさんの時間。心踊るものではないが、退屈というほどでもない。

 その頃の僕は一番欲しいものを未だ手に入れられず、自分のことでいっぱいいっぱいだったため、彼の話に限らずこの世の全てを話半分に聞き流している状態だった。臨也と腹を割って話す機会など長い付き合いの中でもそうなかったのだから、僕はもう少しあの時間を大切にするべきだったのだ。今ではそう思う。きっかけはどうあれ、性格がどうあれ、折原臨也は僕の友人なのだから。

「いつか俺は、君を裏切るだろうね」

 彼はそうも言った。
 彼が僕を裏切るとしたらそのやり方は大体の予想がついたし、もちろん易安と許すつもりはなかった。僕らはお互いあまり一般的ではない愛を持っていて、その利害がぶつかる時、友情がどうなるのかは僕にも予想がつかなかった。それは今でも同じだ。その時が来たら、僕は彼を憎むだろうか?自分の人生から、自分の世界を壊すものを、排除したい。そう思うのだろうか。思えない気がすることが怖く、そう思う自分が何より怖かった。僕はしょせん、友人を持つ資格などない人間なのだろう。

「死ぬのが怖くて、いつか僕を裏切る君は、そうしたら一人ぼっちで永遠を生きるのかい?」
「自惚れるなよ新羅。まるで俺には君しか友達がいないみたいじゃないか」
「ごめんごめん。もしかしたらそうなんじゃないかと思ったけど、本当にそうならこれ以上は言わないよ。自分がされて嫌なことは人にもするなって、セルティに二度目の解剖を頼んだ時に言われたからね。まあ僕はセルティになら腹を裂かれようが背を斬られようが構わないんだけど。何しろ既に、この胸には愛の矢が深々と突き刺さっているのだから!」

 臨也の精一杯の自虐ジョークを一笑にふした僕は、たぶんその後数十分にわたり自分の想い人の魅力をお伝えしたのだと思う。臨也はへえとかふんとか適当な声を出しながら、そのうち何も言わなくなって、隣でちびちびと缶ビールを飲んでいた。生返事とはいえ彼が僕のノロケ話に嫌味の一つも返さず相槌を打つことなんてなかったし、ましてやツッコミを放棄して黙りこくることなどありえなかったので、やはりその日の臨也は少しおかしかったのだと思う。
 しかし先程も言ったように、僕には余裕がなかったのだ。空気どころか、横に座る友人の心を読む余裕さえ。

「……なあ新羅、君は死ぬのが怖くないのか?」

 彼が再び話題を戻したのは、酒も底を尽きた明け方近くのことだったと思う。ハイペースで飲んでいたわけではないにしろ、僕らは相当に脱力し、開放的なような投げやりなような、胡乱な気分になっていた。臨也が挑発や誘導以外で誰かに物を尋ねるのは珍しいことだ。それも、どこか縋るような響きで。

「……死を恐れない生き物なんていないさ。ただ人間という生き物は、それを本能の一言で済ませることができないほどの自我を持ってしまったからね。それでいて、生命力の進化には限界がある。悲しいことに」
「……」
「僕にとって死とは、愛する者を自分から奪う略奪者だ。怖いというより、憎いよ」
「デュラハンが永遠に近い命を持つのだとしたら、恋人を奪われるのは君じゃなく運び屋の方じゃないか。君がなくすのは恋人じゃなくて君自身だ。……まあ、あくまで君たちが両想いになれたら、の話だけどね」
「同じことだよ。セルティを感じることができない世界があるとしたら、それが僕にとっての死だ」
「……偏狭的だな。気が知れないよ」

 そう言って口角を上げた臨也は苛ついていたのか呆れていたのか、もしくは吹っ切れて失笑していたのか。おそらくその全てだったのだろうが。

「もし新羅、君が自分の保身や延命のためだけにわざわざデュラハンなんていう妖怪を愛しているのだとしたら、俺はお前が憎くて妬ましくて仕方なかっただろうけど……」
「僕はそんなどうだっていい理由で人を愛したりしないよ。それにセルティは妖怪じゃなくて、妖精だから!」
「なんか、お前と話してると本当に、いろんなことが馬鹿らしく思えるよ……」

 自分を失うのが怖い臨也と、相手を失うのが怖い僕とでは、最初から話にならないことは解っていた。
 けれどそれを踏まえた上で、やはりもっとちゃんと話しておけば良かったと思う。当時のことを思い返す度、ため息を飲み込んで腹で腐らせるような後悔があった。例えそれが酔っ払いの戯言で、次の日になれば恥ずかしくて忘れたふりをしてしまうようなものであっても、彼の弱みに手当をするべきだったのだ。友情というのは、共通の恥ずかしい記憶を、口に出さずに心のどこかにとっておくことなんじゃないだろうか。

 なにも今、自分が幸せになったからといって、上から目線で彼に説教をしたいわけではない。彼はそういうのを何より嫌うだろう。僕だってそんな間抜けなことはしたくない。ただ、僕は僕の幸せのために、彼を繋ぎ止めたいだけだ。
 人の背中を押しながら、自らも底へ底へと落ちていく彼の手を、奈落の底の一段手前で引き寄せたいと思っている。臨也のためじゃない。そして、セルティのためでもない。
 自分のためだ。
 僕だって、友達が少ないんだ。

 おそらく彼は、僕でさえ解らない僕の行動原理や深層心理をむやみに深読みし、いつも勝手に傷付いている。彼なりの動機付けをして、自分は彼女の理想に添うための手段に過ぎないのだと、ネガティブな自己評価を決め込んでいるのだ。
 難儀な男だと思う。本人は認めないだろうが、人間観察の専門家は、専門家の陥りがちな論理の渦にはまり込んでいる。そうでなければどうして、セルティ相手にあんなことを言うだろう。

──自惚れるなよ新羅。

 彼の言葉を思い出し、僕はやはり力なく笑った。少しくらい自惚れさせて欲しい。そしてもしまだ間に合うのなら、彼ともう一度、二人で酒でも飲みに行きたいと思った。僕たちはもう大人で、大人であることにもいくらか慣れ、ようやく酒の味も解りはじめたのだ。
 そしてきっかけがどうあれ、性格がどうあれ──例え彼がいつか僕を裏切るのであれ──折原臨也は、僕の友人なのだから。


「僕は愛する人を失いたくない」
「俺は俺を失いたくないね」
「全人類を愛する君は、全人類を失っても自分が居ればいいっていうの?」
「極端なことを言うなよ。そんな状況はあり得ない」
「でも、きっと同じことだよ」

 そう同じことだ。君の世界は人類で、僕の世界は人外だ。
 それでも、一緒にビールを飲むことくらいはできる。

2012.12.10
キャラ+キャラ企画『足し算』さま提出

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