隣人セインツ



 あっ停電だ、と思って真っ暗な中手探りでブレーカーを上げると、部屋の真ん中に奇抜な格好のお兄さんが立っていた。状況的にはホラーなはずなのに、その人物があまりに落ち着きと集中力に欠けた小学生男子みたいな雰囲気を纏っていたため、こっちの心は落ち着くしかなかった。

「あれ、お前誰?」
「こっちの台詞です」

 幽霊にしては緊張感がないし、泥棒にしては迫力がない。この男は一体なに者なんだろうか。

「あの、どちら様ですか」
「俺? 悪魔」

 悪魔かー。どうりでアバンギャルドな格好しているはずだ。……って悪魔? 悪魔って悪魔って、いわゆる一つのあの悪魔?

「悪魔ってえーと、天使と悪魔の悪魔ですか?」
「そ、俺ちょい前に墮天したから。よくよく考えたら天使とかダッセェし」
「はぁ……」
「つーか、ここイエスんちじゃねえの?」

 自称悪魔さんはカーリーな前髪に隠れた目でキョロキョロと部屋を見渡したかと思えば、猫背のまま狭いアパート内をうろつきだす。

「イエスって聖さんですか? それならお隣ですよ」
「んじゃ間違えたわ。でもまあいいや、考えたら特に用ないし。それより腹へった」

 ご本人に用がないなら人違いの私にはますます用なんてないんじゃないかと思ったけれど、悪魔さんが帰る気配はない。というか帰るとなるとやはり地獄に帰るんだろうか。

「あの、冷蔵庫に蟹カマあるから、それ持って帰ってくれません?」
「かにかま? なんか知らないけどいらない。それよりお前のくるぶしうまそう」
「あ、悪魔の主食ってくるぶしなんですか……」
「主食ってよりオヤツ? くるぶし以外もいけるし」

 悪魔さんの鋭い歯がギチっと鳴ったかと思えば、突然足払いをかけられ床に倒される。ベッドの淵に頭をぶつけた。

「……悪魔さん?」
「爪先からかな、これ邪魔」

 靴下を剥ぎ取られ、赤い舌と白い歯が足の甲を挟むようにガリガリと移動した。そんなところを人にかじられたことなど無いため、妙な感覚にぞわりと背筋がよだつ。甘噛みされているくるぶしより、持ち上げられたふくらはぎに食い込む爪の方が痛い。噛む場所を変える度にぺろりと足首を舐められ爪先が震える。

「なんかお前、罪人より甘いな」
「なっ、なにするの! 痛い!」

 片足を掴み上げられた状態で肩を押してみるが、そのままずいずいと迫られ今度は肩をかじられた。見えなかった彼の目が前髪の隙間からぎらりと覗き、身がすくむ。魔力をかけられたように体が動かなくなり、この人本当に悪魔なのかもしれないと今更ながら思った。
 やっとまっとうな危機感を覚えた私は、力の入らない手でなんとかポケットの携帯電話に手を伸ばす。
 一分もしない内に、惜しいジョニデの方の聖さんが血相を変えて飛んできて、平謝りしながらパンとワインをくれた。


10章29節
アパートの隣人を愛しなさい


「ほらルシファーもちゃんと謝って! ほんとに君は昔から関係ない人に迷惑ばっかかけて!」
「はあ? 悪魔が謝るかっての。つーか保護者気取りうざい」

 結局二人が何者なのかはよくわからなかったけれど、こんな自由人の面倒を昔から見ている聖さんはきっと神様みたいな人なんだろうなと思った。

2011.11.20

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