前へならえ



「八千代」

 と、佐藤君が呼ぶようになった。轟さんのことを。

「ってかわいい名前ですよね」
「名前、もかわいいと思うよ」
「呼び捨てにしないで下さい」
「今のは違うじゃん!」

 せっかく褒めたというのに、相変わらず名字さんはつれない。

「ていうか、八千代さんはどこをとってもかわいいいですよねぇ。いさぎよく諦めが付くくらい素敵な人で、むしろ良かったですよ! うん!」

 うんうんと頷き自分に言い聞かせる名字さんだが、その眉はしょんぼりと下がっている。それが自分でもわかるのか、うわあう、と妙な声を出しながら顔を覆った。どうやらキッチンで仲良く話す佐藤くんと轟さんを目撃した直後で、情緒不安定のようだ。

「まあ、俺は名字さんも充分かわいいと思うけ、」
「きぃやぁぁっ!?」

 せっかくちょっと素敵な感じに励まそうと思ったのに、ひょっこり休憩室に入ってきた佐藤君が名字さんの頭を後ろからわしわしと掻き回したため、俺の頑張りは無に帰した。

「おま、大げさだな…」
「さささ、さとうさ、なんですかいきなり…!」
「いや、今日は種島がいないだろ?かといって伊波でストレス発散するほど命知らずじゃねえから、代わりにお前の頭を」

 真っ赤になってわなわなしている名字さんの顔を見もせずにそう言うと、佐藤君は溜息をついた。
 溜息をつきたいのはこっちの方だ。自分がされて困る事は人にしちゃいけないって習わなかったのか。轟さんの思わせぶりに日々苦労している男とは思えない暴挙だ。

「なに、また轟さんの店長トーク?」

 さり気なく名字さんの腕を自分の方に引き寄せながら聞くと、彼はああ、と言って今度はうんざりしたように自分の頭を掻いた。

「い、いいじゃないですか。かわいいもんじゃないですか。かわいいじゃないですか、八千代さん」

 ああテンパってるなこの子。いつも佐藤君に頭をいじられる種島さんを、遠目に見ては羨ましがっている彼女だが、いざ自分となったらこれだ。

「お前なぁ、轟の本気をあなどるなよ。あの終わりの見えないノロケ話の相手すんのは本当に、」
「八千代」
「あ?」
「八千代って呼ばないんですか?」
「あ、あ。俺はどっちでもいいんだけどな、本人に轟言うと嫌がるから……」
「八千代、の方がかわいいですもんね。八千代さん本当にかわいいですよね」
「……まあ」

 思わぬ不意打ちにあった佐藤君はいつものぶっきらぼうな顔を少し赤くし、目を逸らした。ボロが出ないうちにとでも思ったのか、自分から絡んだことなど忘れたようにそそくさとキッチンへ戻っていく。
 あーあ、きっと女の子からしたらこんな所がたまらないんだろうなあ。でも名字さんにとっちゃ、こんな反応は諸刃の剣だろうに。そう思って彼女の顔を見ると案の定、キャパオーバーを起こし泣きそうになっていた。

「……何自爆してるの」
「だって……」

 名字さんは佐藤君に乱された頭をまるで大事なものでも扱うようにぺたぺたと確かめ、そのままへたりとパイプ椅子に座った。俺は机越しに手を伸ばしその髪をきちんと整える。

「あぁ!」
「あぁじゃない。こんなぐしゃぐしゃじゃフロア出れないだろ」

 よし。やっぱり彼女はきちっとしているのが似合う。我ながら子供じみた対抗意識だが、俺は慰めるふりをして彼女の頭をしばらく撫でた。

「はぁ。佐藤さんはすごいな、四年間もこんな気持に耐えてるなんて」
「……まあ佐藤君の場合片想いって言ってもライバルは同性だし、轟さんのあれは恋とは少し違うからね。つまるところ耐えてるってより、本人が動き出せないってだけの話だよ。同情も共感もすることないと思うけど」
「……相馬さん、ずいぶん冷たいんですね」
「えっそう?」
「片想いとかしたことないから、そんなこと言えるんですよ」
「……そうかな」
「そうですよ」
「……名前」
「え?」
「名前ちゃんって呼んでもいい?俺も」
「えっ」
「いやならいいけど」

 できるだけ他意のなさそうな笑顔で尋ねれば、名字さんは少し考えてから「いやではないですよ」と答えた。

「……あわよくば佐藤君もつられて呼んでくれるんじゃないか、とか思ってるんでしょ」
「お、思ってませんよ……!!」
「アハハわかりやすいなぁ。でも佐藤君に名前で呼ばれたら、照れちゃって仕事にならないんじゃないの? さっきだって本人に気持ちがばれたら一貫の終わりだから、あんな風にテンパって逆走しちゃったわけでしょ? 職場内で恋愛するなら、それこそまず佐藤君並みのポーカーフェイスを身に付けなきゃだよね」

 自分でも嫌なこと言ってるなあと思いつつ、口が止まらない。どうやら思った以上に俺は苛ついているようだ。

「わ……」
「……」

 俯いてしまった名字さんに冷や汗が出る。普段の彼女からして、どんな辛辣な言葉を返されるか解らない。場合によっては盛大なカウンターパンチが俺の心を折るだろう。

「わ、わかってますよ! 相馬さんのぶぁーか…!!」

 名字さんは思った以上に子供っぽい捨て台詞を吐くと、エプロンをぷりぷりさせ出て行ってしまった。
 誰もいなくなった休憩室で微妙にヘコみながらぼんやりしていると、遠くからバキっという鈍い音が聞こえてくる。恐らく小鳥遊君が伊波さんに殴られた音だろう。恋する女の子は怒らせるものじゃない。つくづくそう実感する。

「……そーまさん」
「わぁっ?」

 かと思えば、今度はごく近くから、出ていったはずの彼女の声が聞こえ俺は思わず声を上げた。

「な、なに……? ってか居たの?」
「戻ってきました。……これ、あげます」
「?」
「……今もそうでしたけど、最近相馬さんよく溜息ついてる気がして。あの、かなり連勤ですよね?」
「あ……うん。でも別に疲れてるわけじゃ、」
「いいから食べてください。季節のシャーベットです。……それと、バカは言い過ぎました。すみません」
「……ぶぁか、ね」

 小声で謝った彼女の揚げ足を取れば、ギっと睨まれる。

「うそうそ。ありがとう、名前ちゃん」
「……オーダーミスのやつですけど」

 せっかく気分が持ち直したんだから、ミスの理由は聞かないでおこう。一口食べるとしゅわっと舌の上で溶ける。うちの店のシャーベットは青春のような甘酸っぱさが売りだ。


2011.9.21

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