悦楽主義なのね



 放課後の宿直室。
 生真面目な書生のような出で立ちの男が、窓から差し込む日差しに包まれて、うとうととまどろんでいた。どうやら採点の途中で集中力が切れたらしい。

「せんせい、せーんせい」
「!……ああ、あなたですか」

 肩を軽く揺すると先生はびくりと目を覚まし、そのままはーあと後ろへ倒れる。相当眠いようだ。どうせ昨夜はまた、下らないことを悶々と考えあまり寝ていないのだろう。隣には毛布に包まり眠っている霧ちゃんの姿があった。彼女が深く眠っていることを確認し、私も反対側にごろりと横になる。

「先生、可符香ちゃんのこと好きですか?」
「好き? とは」
「つまり、女の子として」

 私がそう尋ねると、先生は首を少しだけ起こしこちらへ向けた。

「はあ、彼女は生徒ですから。異性としては見ていませんよ」
「じゃあ千里ちゃんは?」
「彼女をそんなだらしのない目で見る勇気はありません」
「まといちゃんは?」
「どちらかと言うと怖いです」
「カエレちゃんは?」
「とんでもない」
「日塔さんは?」
「普通」
「……」

 そこまで聞いて、息継ぎのように木の床の匂いのする空気を吸い込む。そしてそのままため息をついた。先生の答えにホッとすると共に、何故か少し苛々した。この人は自分の立ち位置というものをあまりよく解っていない。
 ネガティブでかまってちゃんで、古風とみせかけて意外とちゃらちゃらしてて、かと思えば期待に違わぬ浮世離れ具合。軟弱そうに見えて無駄な行動力があり、世間知らずなのは育ちの良さからか、適応能力の高さは個性豊かなご兄妹からか……。そんな人騒がせな担任を、女性として色づき始めた華の女子高生達が放っておけるわけないのだ。
 このダメ教師は、とにかく無頼派文学の主人公のように面倒臭く、破滅的で、女性にモテる。
私は、仰向けのまま頭の下に手をやり物憂げな顔をしている彼を見て、もう一度ため息をつく。先生はもっと白樺派のような生命力を身につけるべきだ。

「ボタン、取れてますよ」

 窓の形の日だまりが移動していくのに合わせ、少しだけ先生に近付いた。ふと気づき、いつも上まできちんと留めているシャツの衿元を指差す。そのまま人差し指を伸ばしてそっと触れた。白く細い首がいつもより多く空気に晒されている。
 視線を足元に移すと、先生の袴の縞模様にセーラーの紺色がふわりと覆い重なっていた。倒錯的だ。

「ああ、本当だ。困りましたね」

 しかし私たちの間には何も起こらない。先生はなにも起こさない。こんな女好きする顔で、仕草で、声で、何か起こしてしまいそうな予感抜群な人なのに、予感を裏切りなにも起こさないことにかけても抜群だ。
 先生はいつも何かを考えている。
 先生はいつも自分のことを考えている。
 早くその目を他人に向けた方がいいと思う。例えば今隣にいる私とか。でもそうしたらきっと、先生は今までの先生じゃなくなっちゃうんだろうな。
 私は諦めて再び天井を向いた。先生がうーんと腕を伸ばしながらあくびをする。

「先生、今日はいつもみたいに騒がないんですね」

 からかうつもりで聞いてみたのに、先生は涙の滲んだ目尻を擦りながら、私を見て、笑った。

「私にだって、生きていてよかったと思う日くらいありますからね」
「……女ったらし」
「は?」

 間の抜けた声を上げる先生を無視して、えいと起き上がる。窓の外を見下ろし、このしょうもない教師と出会ってから一年が経っているのだと気付いた。


今年も桜が綺麗です

2011.6.22

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