きられて


情事後の生温い空気の中に漂い始めた、ツンと鼻を付く匂い。
さっきまで確かに居た隣室の客も、女将や中居の気配さえも消え、どうやら宿に残っているのは俺達二人だけのようだった。

代わりとばかりに騒がしくなる、外通りの喧騒と爆ぜるような不吉な音。

「まったく、お前の上司は本当に出来た人間だぜ。自分の部下をよく理解してる」
「………」

彼女は襦袢の前を合わせることもせず、黙って俯いている。
触れたばかりの肌なのに、さっきより淫らに見えるのは何故だろう。もう一度覆いかぶさりたい衝動をぐっと抑え、首を振った。

「笑っちまうよなァ、これじゃ誰が誰を騙してたんだか解りゃしねえ」

だんだんと迫る熱気が、狭い室内を赤く照らす。
下から昇る炎に障子はぼんやりと光り始め、無数の行灯に囲まれているようだ。
この世のものと思えない空恐ろしい光景の中で、彼女はまだ、黙ったまま下を見ている。

この女に裏があるなんて事、会った瞬間から解っていた。彼女のようなタイプはあまり密偵には向かない。
それなのにこんな大役を与えた、あちらさんの真意は何かと、最初は不思議に思っていたが。
一年という時を彼女と過ごす内に、それもよく解った。

「お前が、長い時間を共にした相手にどんな情を抱いちまうか。そしてそれに気付いた時、どんな行動に出るか。…それすら理解した上で、お前を鬼兵隊に放り込んだんじゃねえのか?お前さんの信頼してた上司ってやつはよォ」
「……うるさい」

名前は顔を上げたかと思えば、床の間を背にあぐらをかく俺の正面にゆらりと立ちはだかった。手には短刀が握られている。
乳房を半分隠している白い襦袢が、チリチリと赤く照らされ綺麗だと思った。

「お前、切られたな」
「……うるさい!」
「いや、初めからそのつもりだったのかもなァ。もうすっかり火が回ってやがる。奴ら、仲間諸とも俺を焼き殺すつもりだぜ」

名前の声に合わせ、熱された木材がバチッと音を立てた。
もう視界も歪むほど、空気は熱を帯びている。

「お前が全てを理解した時、取る行動は一つだ。それくらい俺にも解るぜ?俺を殺してお前も死ぬ、だろ?」

気丈にしているが、短刀の先は心許なく揺れている。
本当に、この奇襲は彼女にすら知らされていなかったようだ。

「止めとけ。それこそ、奴らの思う壷だ。奴らは自分達がお前を裏切って尚、お前は組織を裏切らないと思ってる。まぁ正にその通りなんだがな。本当によく部下の性格を理解してるぜ」

はぁはぁと段々荒くなる呼吸は、酸素が減っているせいだろうか。
ポタリと彼女の顎から汗が垂れた。

「ヘドが出る。いつだってそうだ。利用出来るだけ利用して、奴らは大儀のために人をゴミみたいに切り捨てやがる。一番身体を張った役者から、もういらないと舞台裏で始末すんだ」

立ち上がり、歩み寄る。
切っ先が肩に当たり、近付くごとに食い込み血が滲んだが気にならなかった。
名前の顔に触れ、滴る汗を伝うように顎から首、首から胸へと指を這わせる。

「さぞや固い絆があったんだろうなァ」

呟けば、胸を伝う水滴は量を増した。名前の身体はガタガタと震えている。

「なんせここまでお前を理解してんだ。…酷いもんだぜ」

互いが互いを理解してる。それはつまり、こいつだって今自分を切り捨てた上司の気持ちが、嫌というほど解るということだろう。だからこそこいつに残された道は一つしかないのだ。

名前は一瞬遠い目をしてから、涙に濡れた瞼をゆっくりと閉じた。
馬鹿らしい。苦渋の選択だったのだ、とでも思っているのだろうか。

つくづくヘドが出る。奴らは悪かった、と泣きながら罪を抱えて、のうのうと生きればいいだけだ。死んだ方は全て終わりだというのに。

「相手が裏の裏をかくなら、お前はそれをもう一度ひっくり返してやれよ。裏の裏は表じゃねぇってことを、正義か悪かしか知らねえ世間知らずの狗どもに教えてやればいい」

煽りながら、俺は腰に差していた刀を遠くへ放った。

「俺はお前に刃は向けねぇ」
「…私はあなたを殺すよ」
「できねぇよ。お前の上司より、今となっちゃ俺の方がお前を理解してるみたいだな。お前は俺を殺すことはできねぇ」
「そんなことない!」
「じゃあやってみろよ」

そう言って名前を挑発するが、いつまでたっても彼女は刀を振りかぶらないし、脚を踏み出さない。
部屋に響くのは木が燃える音と、少しずつ宿全体が焼け朽ちていく振動のみだ。

「…どうした?身体が動かねえか?」
「………っ」
「くく、そりゃそうだろうな。ちょいと盛らせてもらったぜ」

名前の目がハッと枕元の水差しへ向くが、もう遅い。
だがこれは俺からの優しさだ。

向けられた刃の先にそっと手を添える。
軽く力を込めれば名前はそれを簡単に取りこぼした。ゴトリと短刀が床へ落ちる。縦に滑った刃が俺の掌に綺麗な傷を作った。

「薬なんぞなくたって、お前は俺を斬れねぇよ」

ただ、それじゃあまりにお前が憐れだからな。
膝から崩れた名前を両腕で受け止め、抱きしめる。
意識を失いかけた彼女の、自分へしがみつく腕も、名前を呼ぶ声も、すでに憎しみを含んではいなかった。

「高杉……っ」
「死にたくないのに、どうして強がる?」

勢いに任せて死ぬのは簡単だ。
だがここで生き延びれば、増すのは憎しみばかりだろう。
綺麗な最後なんて、やらねぇよ。

「助けてやるから、目ぇ瞑ってな」

掌で彼女の瞼を覆い、意識を飛ばしてやる。
女一人背負ってここから出るのはかなりしんどそうだが、まぁ出来ないこともない。背負うのも、しんどいのも、裏切られるのも、もう慣れてんだ。


切り捨てられた苦しみを


教えてやるから共に生きようぜ。


2010.10.23

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