昼の森は私たちの味方だ。夜になれば掌を返したように闇と静けさを持って襲いかかるが、こんな良く晴れた夏の日などは木漏れ日を作り小鳥達を遣わし、来る者を柔らかく迎えてくれる。
私たちは湖のほとりに沿って歩いていた。水辺には背の低い草が生い茂り、湖面は森に開いた鏡のように、光を集め輝いていた。
ヒッポグリフが二、三頭連なって遠くの空を飛んでいくのが見える。
初めて過ごすホグワーツでの夏は想像よりもずっと静かだ。
「何をしている」
「薬草を摘みに赴いた教授の、お手伝いを」
「そうではない、何故お前は夏期休暇だというのに、家にも帰らずここに残っているのかを聞いているんだ」
教授は体感温度の窺い知れない真っ黒な格好で私の前を歩いている。イギリスの夏は過ごしやすいといえ、彼の肌はやはり蛇のように冷たいのではないかと最近疑っている。
「私だって夏休みは友達から遊びに誘われたり、家族からはバカンスに誘われたり、マクガーレンくんからは何故か実家に誘われたり、決して暇なわけじゃないんですよ。でもそれらは全て後半に詰め込みました。七月のうちはこっちに残っていいと、フリットウィック先生から許可も頂きましたし」
「……だから何故、」
「あ、もちろんマクガーレンくんの実家には行きませんよ」
「……」
黙ってしまった教授の背中に、私は少しバツの悪い声で投げかける。
「来年からの生活に向けて、いろいろと準備をしなきゃいけない事が多くて。……っていうのは半分口実なんですけど」
呪文学クラスの助手兼、研究生としてこの学校に残ると決めてから、やることが増えてごたごたとしているのは確かだが、私が今年他の生徒たちと一緒に家へ帰らないのはやはり下心によるところが大きい。教授にそれがバレていないわけがなかった。
彼はそれきり何も言わなくなったので、私の不真面目さを怒っているのかもしれないと思った。
「……どうして、毒のある植物ばかりを?」
しばらくの間、森から発せられる様々な音にだけ耳を傾けていたけれど、教授が手にする薬草は図鑑で知る限り取扱い注意のマークが付いているものばかりだったため、つい聞いてしまった。
教授は思ったよりもずっと穏やかな声音で、答えてくれる。
「毒をもって毒を制す。多くの抗毒薬はその成分を予め取り込むことが必要だ」
「ホメオパシー、ですか」
私がそう付け足すと教授はほう、と少し感心したようにこちらを見た。以前何かの書物で読んだのだ。
「呪文みたいですよね」
「英語だ」
早い話、その成分を細胞に取り込んで、免疫力を付けるということなのだろう。
私はこの教授を抜きにしても薬学が嫌いじゃない。しかしやはりこの教授だからこそ、教科書を恋人と思えるほど好きになれたのだろう。
少し強い風が吹いてさやさやと樹が鳴った。教授のローブが空気を含み絵のように靡いた。目の端で湖がキラキラと揺れている。
私は思わず呼気を止め、そして質量のあるような温かい息を、ほうとまとめて吐き出した。
「もてあましているんです。情欲を」
そう口にすると、教授が転んだ。いや、転びそうになって木の枝に手を付いた。教授が転ぶのなんて珍しい。彼はいつだって颯爽と毅然と(そしてつまらなそうに)歩いている。
振り向いた顔には「勘弁しろ」と書いてあった。
さすがに引かれたのかもしれない。でもだって、しょうがないじゃないか。私だって年頃の健全な女なわけだし、好きな人と晴れて両想いになれたばかりで浮かれているのだ。たとえあのイースターの夜の出来事は私の夢だったんじゃないかと思うくらい、当の本人が無愛想で辛辣で釣れなくとも。
私はなんだか勢いに乗ってしまって、教授の身体に触れようとただそれだけの気持ちで、えいやと足を踏み出した。のだが、狙いを定めたその人はサッと素早く後ろに身を引いた。
ドボォン─。
と、漫画のような音を立て、私は湖に落ちた。
幸い深くはない。顔を上げると「何をやっているんだ」という顔で教授が見下ろしている。顔を見るだけで何を言いたいか解る最近の私はちょっと凄いと思う。恋人同士に言葉は要らないのだ。まあ、とてもそういうレベルではないけれど。というかなんなんだろうこの仕打ちは。
「よ……よけるとか大人げないですよ!」
「本能だ」
「酷い!」
やっぱりあの日のことは私の思い違いだったのだろうか。
教授は原因の100%が私にあるような態度で、しぶしぶと私を湖から引っ張り上げると、びしょびしょに張り付いた私の髪を撫で付けた。その指はちゃんと人の温かみを持っていた。
「馬鹿な奴だ」
「誰のせいですか……」
青い色のネクタイを解き、濡れたカーディガンを身体からはがす。
教授が貸してくれたローブに包まると、教授の匂いがして私はまた息が重くなるのを感じた。彼はそれを見てまた「勘弁しろ」という顔をした。
きっかけは酷いが、まあ一休みしようということになり、二人で樫の木の根っこに座りこむ。
「今日の教授は生徒みたい」
「我輩は教師だ」
「それはそうなんですけど、なんか同級生と散歩してるみたいだなぁと思って」
「お前が勝手に着いてきただけだろう」
「たまにはいいですね。学校を離れてデートっていうのも」
「だからデートではない」
「教授、そういうのツンデレって言うんですよ」
「何語だ」
「サンスクリット語ですかね」
採取した草花を六角形のビーカーのようなものに詰めながら、彼はいい加減な事を言うなと笑った。私はその顔に内心びっくりしたけれど、あえていつものことのように振舞う。彼のローブの下で、いつもより小刻みに心臓が鳴っている。
「……教授のその毒気は、私が更なる辛苦に立ち向かう時のためのホメオパシーですね」
「あまり前向きに捉えすぎると、人生損をするぞ」
「しませんよ。私はこれから何があっても、細胞に教授の毒が染み込んでいるから耐えられるんです」
そう言って胸に手を当てると、彼は眩しそうに目を細めた。
教授は何も言わなかったけれど、やっぱり私には何を言いたいか解ってしまったので、思わず顔が赤くなった。
「……私も好きです」
以心伝心ホメオパシー
いつまでも共にあるということ。
2011.7.18
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