1Rotation




教授は教科書を片手に、机の間を縫うように歩く。
他の生徒が感じているだろう威圧感は、私にはとても甘く感じる。もし友人にこの恋を相談したら、皆、口を揃えて正気じゃないと言うに違いない。

彼の影が私の後ろをよぎり、長いローブの起こした風が僅かに背に当たる。

だからといってなんということはない。私はいつもの顔で薬品を混ぜるだけだ。恋する乙女といえど、押し時と引き時を使い分けられるくらいには器用なつもりだ。授業の中で変に取り乱して、彼に迷惑をかけたくはない。

心を静かにして液体を混ぜる。遠くの席で鍋を爆発させたグリフィン生が、教授に減点されているのが聞こえた。馬鹿な奴らだ。

私は自分の鍋の中がいい火加減になってきたので、コウモリの足を手頃な大きさに刻みはじめる。すると近くに座っていた女子達が、内緒とは言えない音量の内緒話を始めた。
その浮き足立った声は、そばだてるまでもなく耳に入ってくる。

ハッフルパフのアンジー、したんだって。彼と、初めて。え?何を?キスよ。ダンスパーティーの夜。本当に?それで?彼女ね、自分からしといて恥ずかしくなって、逃げ出したんですって。うんうん。そうしたら、後ろから腕掴まれて。そのまま。そのまま?やだ、わかるでしょ?やっちゃったのよ!

きゃあと何人かが興奮した声を上げる。
ほぼ同時に私の鍋が爆発した。

……あれ、器用だと、思っていたんだけどな。

「名字名前、残って掃除をするように」

教授の声はとても冷たい。



機嫌の悪い薬学教師を横目に生徒達はあっという間に退散し、教室には焦げた鍋の匂いだけが燻る。
彼は怒っているというより、心底呆れたような顔をしていた。

「まったく。お前は歳のわりに大人びているかと思いきや、思ったほどには落ち着きがないな」
「いつもはこんなんじゃないんです。ただ、今日は」
「今日はなんだ?」
「……いえ」

教室での彼の態度は揺るぎなく、少し悔しい。黙る私を教壇から見下ろし、教授は授業よりも難しいことを言う。

「大人なのか、子供なのか、はっきりしてくれ。こちらもやりにくい」
「そ、そう言われましても……」

だいたい自分からはなかなか距離を詰めないくせに、最近教授は注文が多くなったと思う。そんなのは、不公平な気がした。

「それじゃあ、教授が私を大人にしてくださいよ」
「……自分が何を言っているか解っているのか」
「教授……教授は学生の頃、自分のことが何も解らないほど幼かったんですか」
「……そんなことはない。ただ、」
「ただ?」

彼は教壇から降りると、少し離れた席に腰掛け、眉間の皴を深くした。

「大事なことをいくつか、間違えもした」
「なら、私は間違えたくありません」
「……」
「あなたが好きです」
「……よせ」

彼は掌で額を覆い、深くため息をつく。
この人の心は、きっと長い時間をかけて複雑にこんがらがっている。いくらストレートに切り込んだところで、一筋縄にはいかない。それくらい解っている。

「困らせていますか」
「かなりな」
「どうしよう、少し嬉しいです」
「お前は愛する者に対する思いやりが足りない」
「そんなことないですよ。教授には幸せになってほしい」

私はそう言って両手を広げた。
彼はゆっくりとこちらに近付き、私をしばらくの間見つめる。そのまま視線を逸らさずに右手を上げると、穴のあいた鍋を目の前に差し出し、言った。

「早く片付けろ」

……やはり、この人の体に通っているのは血じゃなくてコウモリの出汁か何かだ。



僕らはらせん階段を上り続ける
2010.12.30

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