※姪設定
あの場所は総てのものが歪んでいた。
人への悪意は合理化され正当化され、幼い私の前に堂々と横たわっていた。帝国陸軍第十二研究所で、叔父が何をしていたのかはよく知らない。が、とてつもなく非人道的な何かであったことは確かだ。いつでも叔父に嫌悪の眼差しを向けていた悪相の男を、私は忘れることが出来ない。あの人は叔父と違い、こんな所には一秒でも居たくないといった様子だった。戦争が終わった今、そこでの行いが外部へ漏れることはないだろう。忌まわしい記憶に口止めなどは要らないのだ。
「たのしみなさい」
大佐は言う。
かつて認めた部下が、情に溺れるようにして大衆の海に堕ちたことを憐れみながら、たのしまなくてはいけないよと繰り返す。
「彼は君のことを随分と気にかけていたようだ。否、きっと今でもそうなのだろう」
「気にかけていた?」
「女こどもに甘いのだね。今育てている藍童子……笙のことも、このままではいけないと思っているようだ」
殊勝なことだねえ──。
嗤う大佐の鷹のような目から逃れることが出来ずに、この齢まできてしまった。
「お前は私に育てられ、不幸だったと思うか?」
「わかりません。そうでない場合を知らないから」
「そうだな。しかし、希望くらいはあっただろう」
あっただろうか。あったのだろう。しかし言語化していない想いを、今さら思い出すことなどできない。子供が環境に疑問を抱けるような時代ではなかったのだ。
「お前は私の切り札だ。きちんと管理して、箪笥の奥にしまっておかなければいけない」
「あなたの手持ちは切り札ばかりでしょう。だから簡単に捨てる」
全部がジョーカーなら、そこに希少価値などあるだろうか。
「そして本当に欲しいカードは手に入らない。彼の……中禅寺秋彦の劣化複製をいくら作ったって、意味なんてない」
彼は単体であるようでいて、そうではないのだから。彼の周りにはいつだって人がいる。力がある。それを真似ることはできない。私がそう言うと、大佐は片頬を持ち上げて笑みを深くした。
「お前は、溺れたかったのだろう」
そうかもしれない。私が望んでいたのは、彼と一緒に暖かい水の中に飛び込むことだったのかもしれない。ここはどうにも、寒すぎる。
戦後国家の束縛から逃れた彼は、所帯を持ち、店を構え、東京で静かに暮らしているらしい。呼びもしない知人に頼られ尋ねられ、眉間にしわを寄せながらも世話を焼く姿が目に浮かぶようだ。浮世離れしたように見えて、地に足がついている。人の営みがどうあるべきかを、よく解っている。だとしたら──溺れているのは私たちか。
たのしみなさいと彼は言う。無駄なものに囚われず、自分の赴くままに。
そうして大佐は、いつも一人だ。
「顔に出ない人なんです」
「なんだね?」
「いえ」
中禅寺さんは、ああ見えて生きることを楽しんでいる。あなたより、きっと、ずっと。
2012.8.21