「おい、いるんだろう」
骨休めの札が掛けられた戸口から声を張ると、座敷の奥から店の主が顔を出した。
「文字が読めないのか君は。骨休めと書いてあるだろう」
「まあいいじゃないか。どうせ暇を持て余して本でも読んでたんだろう」
「本を読んでいる以上暇じゃないんだがね」
相変わらず君の読書への姿勢は不誠実だな──。そう言いながら、京極堂は懐手で顎をさする。
「そうは言っても、どうせさっきまで店を開けてたんじゃないか」
「いや、今日は一度もあの札を下ろしてないよ」
「何を。彼女には本を売ったのだろ」
とぼける店主を睨みつけると、彼は訝しげな顔で私の言葉を反芻した。
「彼女?」
「近頃よくここに通っている女性だよ。着物を着た涼やかな……そういえば、彼女はどういった知り合いなんだい?」
尋ねれば、彼は微塵も表情を変えず理解しがたいことを口にした。
「ここ最近は君以外、客どころか蕎麦屋の出前さえ来てないが」
「そんな、馬鹿な。僕は毎日のように彼女とすれ違い、いや、この店の中でだって、確かに彼女を……」
そこまで言って、私はどうしようもない気持ちになる。言葉を失い嫌な汗が首を濡らす。京極堂は怪訝というより、哀れみを帯びたような表情でこちらを見遣ると、さらによろしくない事を言う。
「君は近頃一人で店に来て、珍しく熱心に書架を眺めたかと思えば、ろくに言葉も発さずに帰ってしまうじゃないか。まあ君の挙動にむらがあり言動がおぼつかないのには慣れているが、それにしてもここ数日はどうも変だったぜ」
「いや、しかし、京極堂……」
えもいわれぬ焦燥感に飲み込まれた私の口から零れるのは、お得意のどもりだけで、しかし、一つのことを思い出し、私は縋るように彼に問いかけた。
「彼女はどうしても読みたい本を君のところで見つけたと……! そう、巷説、巷説百記。誰かに売った覚えはないかい?」
京極堂は今度こそ呆れ果てたという風にため息を吐くと、わずかに心配の色を込めて言った。
「関口くん、自分の右手をよく見るがいいよ」
私はそこでギクリとして思わず持っていた本を落とした。表紙には確かに、『巷説百記』と印字されていた。
ぼんやりといつまでもそれを見つめる私の頭上に、京極堂のよく通る声が振る。
「……君はまた、あちら側に足をとられているのかい」
あちら側とは。
彼岸、のことだろう。死んだ側の世界。いつか私が片足を突っ込んだ、恐ろしくも蠱惑的なぬかるみだ。
「死を恐れるがあまり、死にたくなるのが鬱病だ。君が楽になりたいというなら──僕は、そっちに行くのを止めないが」
「京極堂……」
「おかしな幻想に囚われるのさえ、生きている者の特権ということを忘れるんじゃないよ」
彼はそう言って少し顔を歪めると、座敷の方へ引っ込んだ。
──出がらしだが、いいかい。
奥から聞こえた声に私はのろのろと顔を上げ、かまわないよ、と言った。
彼女は死後の世界を信じないと。切ない話だと。そう言っていた。その全てが、誰より臆病な私の見た幻というのなら。私はあの坂に未だ囚われているのかもしれない。二つ前の夏に見た、姑獲鳥のことを思い出す。
しかし、幻と割り切るにはあまりに……もったいない気がした。それこそが私の弱さだと知りながら、私は甘美な願望に一時、身をまかせてみる。もし彼女が幽霊だというなら、それはすごく、すごく──。
おいでやおいで あちらとこちら どっちがよかれ 逝くのがこわけりゃ おいでなさいな
2010.8.15
ホラー企画『うしろの正面だあれ』様提出。
いつまでも不安定な関口先生を愛してます。