死んだ側の世界



おいでやおいで えんがわこえて あつさもにげる このしたやみの なんとますずし あちらとこちら どっちがよかれ いくのがこわけりゃ おいでなさいな


 茹だるような暑さに、流石の彼女も閉口していた。しかし汗かきの私と違い彼女は一見して涼しげに見える。緩やかに波打つ坂道の砂利と、その頂上に立つ彼女はともに白く光っていた。
 私は、彼女に声をかける。

「やあ、今日も京極堂に行っていたのかい」
「ええ。関口先生も、またあの薄い番茶を飲みに?」
「まいったな、千鶴子さんはまだ留守かい」

 古本屋「京極堂」の主人、中禅寺秋彦は、細君が不在の時には客にまともな茶の一つも出さないのだ。この時期、妻である千鶴子さんは実家京都の祇園祭りを手伝いに帰郷しているため、訪れる者はみな主人の煎れる出がらしをすすることになる。

「ここは、不思議な坂ですね」

 そう言って、彼女は坂の両脇に続く白い油土塀を眩しげに見下ろした。その不安定な傾きと単調な景観のせいで、通る者の意識を惑わすという。誰が呼んだか「目眩坂」の異名を持つ坂道である。彼女の呟きに、私はふとあることを思い出した。

「僕は一度この坂で怪異を見たよ」
「やですねえ、関口先生」
「君も気をつけた方がいい」

 ほんの少しからかうだけのつもりだった。

「私、怪談の類は信じないことにしてるんです」

 元から白い顔をさらに少し青くして、彼女は言う。

「死後の世界というのは、生きている人間のためにこそあるのでしょう。いつだか中禅寺さんがそう言っていました」

 それは最もだ。死んだらどうなるのか、などと考えられるのは生きている人間の特権である。死人が浮かばれぬ、とか死人が化けて出る、という考えは、死人を置き去りにした生人の独りよがりだ。あの世とはこの世の副産物でしかないのだ。
 ──人は死んだら、

「そこで終わり」
「あ、ああ」
「ぱっと消えて、全てなくなるだけです。その方が潔い。そうでしょう関口先生」

 それは、そうなのだろう。しかしそれを受け入れることができずに、人は死後の世界を作りだし、それに怯え、ひたすらに焦がれる。かくいう私も──。

「それに、」

 いつもの如く簡単に内側へ篭ってしまった私の意識を引き戻すように、彼女の憂えた声が聞こえ、顔を上げた。

「最後までなにかに憧れながら逝くというのは、なんとも切ないものじゃありませんか」

 あまりに悲しげな顔で言うものだから、私は何故だかいてもたってもいられなくなり、珍しく早口で話題を変えた。

「な……何か、探してる本でもあったのかい? 近頃あそこに通っていたようだけど」
「ええ、どうしても読みたい本があって。ほら、巷説百記。やっと見つけました。関口先生こそ、ご自分の本を売りに?」

 彼女は私の持っている古びた和書をちらりと見て言う。

「やあ、僕は本を買ってもどうせすぐ売ってしまうたちだから、元から借りるだけなのさ。あそこで買って、また売ったと思えば割りがいいだろう」
「まあ、それはいいお客様で」

 彼女はくすくす笑いながら指を鼻先にあてた。先程の陰りはすっかり消えていて、私は安心する。では、と頭を下げ坂を降りていく彼女の後ろ姿が、陽炎の上でゆらゆらとにじむのを見ながら、私は思った。怪談を信じないと言う彼女は、何かの怪異をその身に浴びたことがあるのかもしれない、と。



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