ぼんやりとした視界に見える、端正な顔立ちを諭す。
「えのきづさん、飲みすぎですよ」
「飲みすぎは君だ」
「……そうみたい。酔いすぎて地に足が付きません。浮遊感がすごい」
それは本当に地面に足が着いていないからだ!
ハツラツと指摘され周りを見ればなるほど、私は榎木津さんに抱きかかえられていた。さっきまで居たはずの木場さんの行方を問えば、彼は「潰したのはお前だ」と友人に面倒事を押し付けそそくさと帰ってしまったそうである。
「ソファーで寝たら首を違える」
そう言って彼は私を持ち上げたまま勢いよく体の向きを変えた。お気遣いはありがたいが、洋画に見るお姫様のごとく横抱きにされ、しかも当人がまさに王子様のような見目ということもあり、加えて目眩を助長させる遠慮のない揺れと旋回に、酔いは醒める所かどんどん増した。目の前がぐるぐるする。
そもそも何でこんな状況になったのか。私はぐるぐる回る頭をぐるぐると巻き戻した。
神保町駅前から少し入った通りにある榎木津ビルヂング、その三階を久々に訪ねたのだ。「薔薇十字探偵社」と書かれた曇り硝子の嵌まったドアを開けると、既にそこは宴もたけなわといった様子であった。榎木津さんがお酒を飲む相手といえばもっぱら幼なじみの刑事で、本日も例にもれず木場の旦那がソファーにどかりと腰掛けていた。彼と交流を持つ奇矯な人物というのはそもそも少ないのだが、文士は下戸だし本屋に至っては一滴も嗜まない。
結果うわばみ同士、探偵と刑事の一騎打ちというまるで推理小説のクライマックスのようなシチュエーションになる訳だが、今日はそれにしがない小娘である私が巻き込まれたという次第だ。さながら私は遅れて来た被害者、である。
「豆腐はツマミにはなるが、話し相手としては四角すぎる。君は丸くて美味しそうだけど、とって食いやしないから一緒に飲もう」というのは探偵の言い分であり、もちろんこの場合の豆腐とは刑事を指す。
相変わらず彼の言うことは筋が通りすぎているようで同意し兼ねるが、まあ私も好きな方だし、日夜勤労に励む殿方たちに手酌を強いるのも何なので酒宴に参加することにした。
──という決断を下した所までである。正確な記憶が残っているのは。私も弱くはない方だと自負していたが、この二人は器というか桁というか、まぁまさに酒の入る器と桁が違った。牛飲とはこのことか。と、私の回想もそこまでで、ドカッと豪快に響いた音に首を竦める。おそらく彼が足で扉を開けたのだろう。
寝室はなんだか訳のわからない物で溢れ返っていて、まるで持ち主の脳内のようだった。ひたすらド派手で雑然としているが、不潔ではない。寝台へと私を降ろすと、榎木津さんはブワリと大きな(おそらく布団ではない)布を広げ自分も一緒に倒れ込む。カフスの外れたシャツの袖口からは綺麗な一の腕が覗いていて、それを天井へと一度伸ばすと、ぐるりと再び私の体を抱き込んだ。目の前にある大きな瞳が、酩酊寸前の視界に妙に眩しい。彼はふふう、と笑ってそれを細めた。傾けると瞼を閉じる、西洋の磁器人形のようだ。色素の薄い半眼に映り込む自分の顔は、いつもより高級に見えた。
「やっぱり食べてしまおうかなあ」
さすがの彼も酔っていない訳ではないのだ。
ぱくりと鼻の頭をかじられ、私はまたぐるぐるぐるぐると、解らなくなる。その後に続く感覚はひたすらに気持ちのいいものであった。
被害者のいない事件
2011.2.21