春が終わる 夏が香る



 言葉なんて信用ならない、そう思うけれど。
 言わなければわからないこともあるのだろう。そしてわかってたって言えないことも、やはりある。

 これだから人の心は厄介なのだ。気持ちは溢れんばかりに渦巻いているというのに、それを言葉に変換する術を持たないなんて。又うまい言葉が見つかったところで、言っても無駄だ、言うべきではない、と心が判断してしまえば途端に喉はその機能を失ってしまう。その言葉を発した後の羞恥心や罪悪感を想像するだけで自分の体が思い通りにならなくなるなんて、いったい私の身体はどういう仕組みをしているのだろうか。自分で自分に呪いをかけているとでも言うのか。
 始めに言葉ありき、と彼は言う。
 心を言葉として認識する事と、その過程にある脳と意識の交流関係もろもろについて、以前彼からそれは解り易く講釈してもらったことがあったが。そんな理屈はもう忘れてしまった。それに、理屈じゃ片付かない多感なお年頃なのだ。自分で言うのもなんだけれど。確かに彼の口から発される魔法のような言葉に思考を任せ、最後にはお決まりのセリフでさらりとまとめられたなら、なんだ本当に不思議なことなどないじゃないかとつい納得してしまう。
 しかしこうやって一人もやもやととりとめも生産性もない思考を巡らせれば、私には私を取り巻く何もかもが不思議に思えてたまらなくなるのだ。特にここ最近はひどい。自分の中の、ある感情に気付いてしまった近頃の私は、もう妖怪か珍獣かというくらいに挙動不審かつ薄ぼんやりとしていて、正体がない。そわそわしたりぼうっとしたりを交互に繰り返す私は、周りから見たらさぞや気味が悪いことだろう。

 そして今日も例の如く、つらつらと考えごとをしながら不安定に続く坂道を登ってゆく。東京郊外にある、とある大学の文学部に所属している私にとって、あの雑学の巣窟のような古本屋はまさにぴったりの資料庫なのだ。梅雨も近いこの季節になると、衣替えをしたとはいえ温い空気にジワリと汗が滲む。ああ、心にまで汗が纏わりつくようだ。それは私の脳に靄をかけ、導く言葉を不鮮明にする。目的地に近付くにつれだんだんと鼓動が早くなるのは、だらだらと続くこの坂のせいか、はたまた別の要因か。
 中腹あたりで何故か視界が霞み、ぼんやりとした頭で空を見た。そして思う。不思議なことがないどころか、もはやあの人の存在自体が私にとっては不思議でしょうがないと。人はそれを恋と呼ぶのか。認めたくない。「恋」なんてそんな言葉、認識してたまるものか、こっ恥ずかしい。そもそも相手は既婚者なのだ。ないない、恋、だなんて。『京極堂』と掲げられたその店の開かれた引き戸から顔を覗かせると、店の主は案の定いつもの着物姿で俯きながら和綴じの古書を読みふけっていた。
 おじゃまします、と軽く挨拶をして店内に足を踏み入れる。顔を上げもせず、やあ、と短く返事をしただけの店主に呆れつつも、目当ての書物の並ぶ棚へ行き時間をかけて役立ちそうな資料を選んでゆく。





 いつの間にやら熱中してあれやこれやと開いているうちに、随分と時間が過ぎていたようだ。五月も下旬になり、日が長くなったとはいっても、時計を見れば六時を回っている。店の外は薄暗くなっていた。シーシーと虫が鳴いている。
 目星を付けた数冊を手に取り帳場へと歩み寄る。そこに座る仏頂面の男は最初に見た時と全く同じ姿勢で俯き、手に持つ本だけが古書から『近代文藝』と書かれた文学雑誌へと替わっていた。文語で綴られた難解な専門書を読んでることの多い彼も、街の書店で売っているような大衆向け雑誌などを読んだりするんだな、などと珍しく想いながら、告げられた金額を払うため片手に持っていた荷物を帳場の脇に置く。
 すると彼がふいに本から視線を上げ(ようやく、だ)そこに置かれた紙袋を見て呟いた。

「鶴屋吉信の大判焼きだね。あの店の大判焼きは格別に美味い」

 思わぬ言葉に驚き、お勘定も忘れ尋ねる。

「甘いもの、お好きなんですか……?」
「僕はこう見えて甘味の類に目がないんだ」
「は、初めて知りました」
「言っていないからね」
「……」

 確かに言われなければ彼の風貌から、甘味が好物とは誰も想像しないだろう。

「……実はこれ、中禅寺さんに差し上げるために持ってきたんです。いつもお世話になっているから、奥様や敦子さんに、と思って」
「それはお気遣い有り難い。それなら君も食べていきなさい。今お茶を淹れよう」

 彼はそう言いほんの僅かに頬を緩める。夏の予感を感じさせる湿った風がゆらりと店先に流れ込む。そしてその切なさについ零れそうになった一つの大切な言葉を、私は静かに飲み込んだ。

 言わなければわからない事は確かにある。
 そしてわかってても言ってはいけないことだって、やはりあるのだ。


春が終わる 夏が香る

2008.?.?

- ナノ -