量子力学的幸福論



 茶に手を伸ばした彼の、薄手の着流しから伸びる手首が妙に魅惑的だと思った。観測すること自体が物事に影響を与えるのなら、私がこうやって視界のスミに入るだけで、彼の中の何かが変わるのだろうか。
 不思議な人だ。会ったことのない人でさえ、彼にかかれば何らかの情報、知識、憶測によってその思考を大方読まれてしまう。私なんていつも直接会って話している関口先生や敦子ちゃん、榎木津さんは例外ということにしても、目の前の仏頂面の主の気持ちさえろくに汲み取れないというのに。
 でもそれが普通で、その方が私なんかには良いのかもしれない。人の気持ちを理解してしまうのは思いの外辛いことだろう。解ってしまうのは、背負ってしまうのと同じことなんじゃないかと思った。特にこの人の場合は。陰陽師の肩書き通り、何かに取り憑かれた重苦しい心ばかりを相手にしてるのだから。商売なんて言って平気そうな顔をしているけれど、きっとそうじゃない。解ってしまう以上、放っておけないだけなんだ。覗き込んだ他人の闇を身に纏い、漆黒の道を受け入れる。それを商売と割り切るなら、これほど割に合わない商売はない。憑き物落としなんて、難儀なことを実行できる知識と才能を持ち合わせてしまったばかりに、優しい彼は他人を捨て置けないんだ。

 と、まぁ私がそんなことを言ったところで、きっとあなたは素知らぬ顔で受け流すのだろう。その時隠される感情を、私は解り得ない。そして性懲りもなく思ってしまう。関われば皆、当事者。そう言い続ける彼に、私の人生に関わってほしいと望んでしまう。それも傍観者じゃなく、できれば重要な登場人物として。こんな風に思い巡らせている時点で、願わなくたって叶っていると理解してはいるが。
 そこに座ったまま顔を上げもしないあなたが、私の人生の重要な役柄を請負っているということに、果たして気付いているんだかどうだか。まあ彼に限って、気付いていないわけないのだけど。


 観測行為それ自体が対象に影響を与えるという。こうして彼の前に座り頁を捲るだけで、例えわずかでも彼の一部になれるのなら。それでもう私は充分だ。


量子力学的幸福論

 座布団上の対象。あなたはずっとそこに座って、そしていくらでも私に影響を与え続ければいい。

2008.?.?

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